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裕介は息ぐるしくて、目をさました。汗でぬれたTシャツが、肌に張りついている。ねばついた唾液が喉にからみつく、むせるような暑さだ。
陽光がカーテンをすりぬけ、アパートのちいさな部屋も白く明るんでいる。体をよじり、手をのばす。リモコンを手にとり、エアコンのスイッチを入れた。ちかくのめざまし時計をのぞきこむが、寝おきで目がかすんでいる。ぼんやりと焦点がデジタル数字に合っていった。
〔12:27 p.m.〕
〈昼か……〉
10時間以上も寝たのに、まだ体がめざめない。動きだしたエアコンの音が耳にここちよく、なおもまどろんだ。
1時間ちかくたってようやく決心し、ゆっくりと身を起こした。
大学が休みに入って1週間がすぎた。梅雨は明けたが、裕介のこころは晴れていない。長い夏休みをどうすごせばいいのだろう? 去年の夏をくり返すように、今年もまた、自由な時間をもてあましている。
カーテンを開けた。真夏の光が射し込み、目がくらむ。
汗にまみれたTシャツとトランクスを脱ぎ、バス・ルームに入った。ユニット式のバスタブは狭くて、膝をたてないと入れない。裕介は夜でもシャワーですませる
。
熱いシャワーをあびて、汗を流しおとす。肌が息を吹きかえし、 ようやく目がさめた。
ふとんの横にほうってあるジーンズをひろう。ファッションには気をつかうほうではないが、少年ぽさをのこした裕介の細身に、スリム・ジーンズはよくフィットしている。頭から白いTシャツをかぶった。
ワン・ルームのドアをしめ、鍵をかけた。
いつものように、2〜3分あるいて喫茶店《ガーデン・ハウス》 へいく。木製のとびらをひくと、内側につけられた大きな鐘が揺れた。
エアコンの涼しい風にのって、コーヒーの香りがただよう。サイフォンを手にしたマスターは、焦げ茶色の液体をカップにつぎながら、ちらと視線をむける。
「おはよう、って顔だな」
「暑くて、だるくって」
「年寄りみたいに」
やわらかい言いかたにトゲはない。 《ガーデン・ハウス》のマスターは46歳。ダークグレーの髪、やさしい目じりのしわが、大人を感じさせる。
「まずホット?」
「ウン」
うなずき、店の奥へとすすむ。
こぢんまりした店だ。入口の右がわから奥へとつづくカウンターは、6人しかすわれない。カウンターと平行して、左がわの壁にそっ て4人がけのテーブルが2つ。
昼食時なので、店内を客が埋めていた。ほとんどが近くのアパートやマンションの入居者だ。裕介は、顔みしりにかるく頭をさげる。
カウンターの終点が空いていた。スツールに腰かけると、マスターがすぐにコーヒーをだしてくれた。
「夏休みだろう、遊びにいかないの?」
裕介はくびをふる。
「五月病がいまだに尾をひいちゃってね」
「たしか去年の夏も言ってたな」
マスターの声がわらう。
「そうか、『五月病』って、1年前にマスターから習ったことばだったよね」
裕介はうつむき、カップにシュガーとミルクをいれた。
マスターはなぐさめるように明るく言う。
「不幸じゃない証拠かもなぁ」
裕介は口もとで笑みをかえそうとするが、うまくいかない。
〈たしかに、不幸とはいえないと思う。だけど、幸せという実感もない――〉
マスターはフライパンを火にかけ、せまいキッチンで体をまるめてキャベツをきざんでいる。そのあいまに、コーヒーをいれたり、 レジを打ったりと、せわしなく動きまわっていた。
裕介はマスターの手がすくのを待っていた。客のオーダーがある程度さばかれたのをみはからって、日替わりのランチをたのんだ。
〈大学には入ったけど……〉
カウンターに肘をついて、視線をただよわせる。
大学の学生証を手にしてはじめて、活き活きとした毎日がひらけていく。入学まえは、一流大学に入らなければ充実した人生は始まらない、と信じていた。いま考えると、たしかな理由もない思いこみにすぎない。しかし高校生時代は、権威を振りまわす教師たちと、
こと細かな校則にしばられた毎日だったので、どうしても自由にあふれたキャンパスへの憧れが増していった。大学生活には規制がない。無限の可能性が待っていて、どんな夢もかなう。膨れあがったイメージは、裕介にパラダイスを想い描かせていた。
教師や母親の追いたてもくわわって、無我夢中で受験勉強に精をだす。1年という長さが初めて身にしみた。うかるだろうか、落ちるだろうか? 試験日はなかなかやって来ない。受験生活がとても長く感じられ、思った以上に苦しい。不安から精神的に疲れきり、
入試直前にはエナジーも尽きかけていた。
結果的には、さいわいに第1志望の大学に合格できた。
だが、ほっとした安堵感があるばかりで、入学はしたが何をすればよいのかわからない。だれにも叱られなくなると講義はさぼりぐせがつき、ゴールデンウイークを過ぎるとほとんど出なくなってい
た。
クラブやサークルに所属したものは、毎日を楽しんでいる。しかし裕介はそういった団体行動がにがてだ。サーフィンやスキーや車にもそれほど関心もなく、積極的になれない。
1年生の5月、女子大との最初の合コンで、となりに座った女の子が酔ってしなだれかかってきた。『送っていって』といわれ、なりゆきにまかせた感じでファッション・ホテルに入った。その娘は遊びなれているようだった。裕介は初めてだったが、思っていたほどの感激はなかった。おたがいに電話番号さえ聞かなかった。“体験した”という事実だけが、むなしくのこった……。
受験生のときにはあれほど欲しかった恋人も、女の子たちの乾いた明るさを前にすると、気おくれがしていった。
なににも興味がわかない。なにもやる気がおこらない。まいにちが退屈でしかたない。入学して1年以上たったいまも、出口のないけだるさがつづいている……。
「はい、おまちどう」
マスターがおおきな皿をおいた。大盛りの特製ミックス・ピラフ、 よこにはハム・エッグとサラダ。食後のコーヒーつき。定価500円、学生はサービスで400円。
「そんなに安くしてやっていけるの?」
客が訊いたら、マスターは「儲けすぎてるよ」とわらった。
午後2時すぎのブランチ。胃に投げいれるように食べた。
きょうのマスターは忙しそうで、裕介の話あいてができそうにない。
コーヒーを飲み終えて《ガーデン・ハウス》をでた。
一日のうちで、もっとも気温の高いころだ。1時間ちかくも冷房のなかにいたのに、真夏の太陽に照りつけられると、すぐに熱気が体の芯までつたわってきた。
《ガーデン・ハウス》から足を進めて数分、パチンコ店《ニュー・ アポロ》へ。正面の入口は全面硬質ガラスになっていて、なかの客がパチンコ台と向きあっているのが見える。ガラスには〔出玉騒然〕
や〔出血多量〕〔本日大奉仕〕とかかれた赤わくのビラが貼られてある。
〈あれほどあこがれていた、キャンパス・ライフを手に入れたというのに……〉
裕介は今日もまた、《ニュー・アポロ》のドアを押した――。
細木から電話がかかったのは、出会った日から4日後の暑い夜だった。
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