欠けた季節 3  

     


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 翌日、裕介は待ちあわせ場所へ足をはこんだ。
 ターミナルの地下街にもぐると、意外に人で混雑していた。平日の午前中というのに、さまざまな人が思いおもいの方向へ足を進めている。
 高校生も夏休みに入ったらしい。カラフルに身をかざったティーン・エイジが、声を弾ませている。彼らのこだわりない笑顔が、裕介にはうらやましかった。
 指定された喫茶店をさがした。
 入りくんだ細い通りの、ちいさな店だった。
 腕時計をみる。午前10時45分、約束の15分前だ。
 店に入った。
 店内は照明がよわく、客はまばらだった。新聞を手にしている客は、読みづらそうに目をしかめている。中年の背広すがたがほとんどで、若い客はいない。
 裕介に向かって、奥のすみのテーブルから手があがった。早くから待っていたらしい。
 ちかづいていくと、細木は立ちあがった。この前と同じ背広は、グレーというよりどうしてもネズミ色という言葉がうかぶ。裕介からみても、ひと目で安物とわかる。
「いろいろと申しわけない。きみなら、相談にのってくれるだろうと思ったんだ」
〈深刻な話だろうか……〉
 面とむかったら、来てしまったことに後悔しはじめる。とんでもないことに巻きこまれはしないだろうか、と。
 細木にうながされ、腰をおろした。
「忙しいところをわるいね」
「いえ」
〈忙しいところ、か――〉
 裕介には“忙しい”といえる生活がまぶしかった。
「ケガのほうは、どうですか?」
「ほとんどいいよ。すぐに医者に診せたのがよかったようだ。これはこのまえのお礼だ、つまらないものだけど」
 お菓子かなにからしい箱をさしだされた。包装紙には一流百貨店のマークがはいっている。
〈こんなものをもらってしまったら、なにか大変なことを頼まれたとき、ことわれなくなってしまう〉
 気もちが後ずさりしたが、つよく手に押しつけられ、受けとらざるをえなかった。
 ウエイトレスが水をもってきた。テーブルのうえには、細木のホット・コーヒーがひとつ置かれてある。裕介はアイス・コーヒーにしたかったが、細木にあわせて同じホットをたのんでいた。
 ウエイトレスが立ちさるのをまって、細木は言う。
「きみは、大学生だといったね」
「そうです。2年生です」
 ふむ、と細木はうなずく。
「じつは、私の恋人は女子大生なんだ」
〈ハア?〉
 細木の話はまとまりがわるく、ときに順序も前後した。しかし、ひたいに汗しながらことこまかく語る表情は、真剣そのものだ。
 半信半疑で耳をかたむけているうちに、じょじょに本当らしく聞こえてきた。
 彼は46歳。5年まえ、41歳のときに鉄工会社の人員整理でクビになった。と同時に、奥さんから離婚届をたたきつけられた。
 細木は情けなさそうに、沈んだ表情でつづける。
 仕事ができなくて稼ぎがわるく、たよりないダメ亭主だった。高校を卒業して働いていた二人の娘も、ふだんから父親にあいそをつかしていた。妻と娘たちは、長年の失望を怒りに変えていった。離婚はさけられなかった。やっとローンの終えた家もわずかな預金も、慰謝料のめいもくで妻と娘たちが奪っていった。彼は裸でほうりだされた。
 離婚歴のある、41歳のひとりものだ。しかも学歴は、中卒。再就職はむずかしかった。かろうじて《大救生命》の42歳までという営業社員募集にあてはまり、もぐりこんだ。
 入社してからわかったのだが、《大救生命》という会社はつぎからつぎへと社員を採用し、使い捨てにして経営がなりたっていた。新入社員に過剰な契約ノルマを課す。厳しいノルマを達成するには、飛び込みの新規開拓だけではとうてい無理だ。なかば強制的に、本人・家族はもちろん、親・友人・知人をのこらず保険に勧誘させるのだ。あらゆる知りあいに頭を下げてまわらなければならない。やがて知人のタネがきれると、目標をこなせなくなる。いびりなれた上司の激しい叱責にたえられなくなって、辞めていく。会社はまた、新しい求人広告をだす。
 細木には、保険に加入してくれるような知人は最初からいない。外まわりをはじめて一週間もたたないうちに、朝礼で名指しで怒鳴られるようになった。人をひとともおもわぬ口汚い罵倒だ。
 しかし、退職するわけにはいかない。この年齢では雇ってくれる会社などいつ見つかるかわからない。もともと仕事のできる人間ではない。力仕事ができるほどの体力もなかった。
 ここをやめたら行くところがない、必死にしがみついた。
 そして4年――彼の営業成績はあがらない。かといって、いくらひどくいびっても、辞職を申しでない。会社がわがなかばサジを投げたようなかっこうで、昨年、細木は営業から保全、つまりは保険契約後のアフター・サービス担当にかえられた。ただ顧客カードを手に順に契約家庭をまわり、世間話をしていればよい。実際になにかクレームを受けたときには、会社に連絡すればべつの社員が処理してくれる。ノルマもなく、らくな仕事だった。
「私ひとりが食べていければいいんだから、給料が安くてもさしつかえない」
 細木はハイライトのパッケージをゆすって裕介にさしだしてきたが、「僕は喫わないので」とことわった。
 細木は一本をぬきとって口にくわえ、つかい捨てライターで火をつけた。深いためいきを吐きだすように、灰色のけむりをふかす。
「だが、このまま人生が終わってしまうのかと思うと、むなしくてたまらなかったんだ」
 中学を卒業して鉄工会社に就職し、工場に勤務。以来やすい給料で一心に働きつめた。なんとか自分が生活できるだけの収入が手に入るようになって20歳で見合い結婚し(今年の秋に20歳になる裕介はおどろいた。結婚なんて、いまの自ぶんにはまるで現実感がない)、20年以上もずっと生活費を稼ぐことに追われてきた。
「私にはいちども、いわゆる、青春という時期がなかった。いわば、輝く季節を飛びこしてきてしまったんだ――」
 細木はよくしゃべった。
 父親のいない裕介は、細木のような年齢の男性とどう接していいのか、とまどうときがある。いまも、ただ聞いているしかなかった。
「いい年齢をした男が、なにをバカなことをと言われるだろう。しかし、どうしても若々しさにあふれた日々を体験してみたい。一番やりたいことをしなければ、私は生きているのが、この世に生まれたのが意味なくおもえてきた。このままただ年齢をかさねていき、年老いて、心のこりのまま死んでいくのはたえられない」
〈どうしても手に入れたい日々――〉
 裕介にも、キャンパスにあこがれていた受験生時代があった。
「私はこの年齢で、しかもこのとおりのブ男だ。恋愛のしかたも、遊びかたもしらない。いわゆる、ダサイ中年だ。若い女性と交際したいとおもっても、話し相手にさえしてもらえない」
 一瞬かなしそうな表情をした。
「ところが、世のなかはうまくできていた」
 子どもがよろこぶように、笑顔が咲く。
「場所があったんだよ、私のようなものの願いをかなえてくれる」
 店内のほかの客をはばかってやや声のトーンを下げるが、熱気はさらにこめられる。
 ある日、細木が電話ボックスに入ったときだという。電話を終え、つり銭をとろうと視線をおとした。電話帳のうえにあった名刺大の紙が、目に飛びこんできた。 
〔ドール・バンク 
   男女会員募集中 
      TEL(315)69××〕
 こころのなかに灯火が点り、光は熱をおび、急激に拡がっていく。自分の人生を変える運命の一瞬が、目のまえにさしだされたのだ。
 まよったすえに、勇気をだしてプッシュ・ボタンをおした。
 ドール・バンクの事務所は、JR新鳥絃(しんとりいと)駅ちかくの雑居ビル内にあった。
 ヤクザっぽいところかと思っていたら、以外に清潔なかんじのするオフィスだ。スーツ姿の青年が3人、笑顔でむかえた。ものごしのやわらかい、ていねいな応対をしてくる。
 ひととおりの話をきいて、信用できるとおもった。
『私のようなものでも、だいじょうぶでしょうか?』
『ドール契約を結びたがる女の子は、あとをたちませんからね』
 もし1年以内にだれとも契約がなりたたないときには、入会金の半分を返すという。
『だいたいは、おそくても2カ月以内に決まりますよ』
 細木は決心した。
 プロフィール・ノートを書かされ、顔と全身の写真をとられた。かきこむ書類は履歴書のような自己紹介にはじまり、相手への希望などこまかい項目がたくさんあった。
 彼にとっては全財産の3分の1にあたる、20万円の入会金を払わされた。
 相手になってくれる女性がいるだろうか? 期待と不安のなか、 自宅のアパートへの連絡を待った。
「申しこみにいったのが、去年の11月なんだ」
 細木は水のはいったコップを手にとり、のどをうるおす。彼のホット・コーヒーはいつのまにか飲みほされ、カップは空になっていた。
 裕介はカップを口にはこぶ。細木があまりに真剣に話しているので、手をのばせないでいた。なまぬるくなった液体をのどに流しこんだ。
「ところが年内に相手はきまらず、年を越してもいっこうに連絡がない。問いあわせてみても『もうすこし待ってくれ』の一点ばりだ。私は、女性の好みにたいしてはあまりうるさく書いたつもりはない。月に会う回数と手あてについても、ひとなみの数字だ。やはり、さえない男はダメなのかと落ち込んだよ」
 年があけて1月・2月・3月とすぎても、ドール志願の娘はあらわれなかった。
 入会して半年めの4月、これ以上みじめな思いをするよりは退会してしまおうかと悩みはじめた。
 ドール契約の一度も成立していない半年以内の退会なら、入会金の7割の14万円がもどってくる。損は6万円ですむ。一年後なら手もとに返ってくるのは5割だから、お金は半分になってしまい、10万円も損をする。
「自分にとっては大金だ。早めに身を退いたほうがりこうかもしれない。もうやめようと、あきらめかけていたときに、連絡があったんだ。4月の27日だった。その感激はいまでもわすれない」
 初対面は、高級でふんいきのいい場所をえらばなければとおもい、ドール・バンクの事務の青年におしえてもらった。一等地に門をかまえる《ホテル・オーミヤ》のラウンジで待ちあわせた。
 まえもって相手の写真を見ることができるのは、さきに選ぶ権利をもつ女性だけだ。男のほうは、会うまではどんな娘なのか見当がつかない。わかるのは、男性が書類にかきこんだ理想のタイプとバンクが判断し、男性から提示する条件にこたえてきた女性、ということだけだ。
 細木は40分前から広いラウンジをあるきまわり、夢の恋人を待っていた。
 高級ホテルのラウンジにふさわしく、みやびやかな女性が何人もいた。自分には縁のない、名華がさきほこる花園だ。ドレス・アップしたレディーは、微笑みに麗しい香りをただよわせている。艶やかな着物すがたの婦人が、こいきに髪に手をあてる。上品な紺のスーツに身をつつんだ令嬢は、もの静かな足どりも美しい。その優美な足どりが、立ちどまる。
『失礼ですが、細木さんでいらっしゃいますか?』
 驚いた! その清楚な令嬢が、紹介された女性だったのだ――。
「それからホテルの喫茶店で話をしたんだが、すこしでもドジなところをみせたら、交際を断られるじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
 そう言ったあとで、のろけ口調を恥じたのか、せきばらいをする。
「そのへんのことは、はしょってしまおう」
 細木は裕介を見つめる。
「きみは、たしか《国際ソフィア大学》だといったね」
 細木を医者にみせた帰りに、大学名も訊かれていた。
「じつは、彼女もきみと同じソフィア大生なんだ」

    *

「《ソフィア大》にも、そんな女の子がいるんだねェ」
 カウンターのなかでグラスをみがきながら、マスターがいった。
《ガーデン・ハウス》は午後8時をすぎて閉店のプレートをかけていた。マスターは後かたづけをしている。
 閉店時間をすぎても、ときどき常連の客がおそい夕食やかるい夜食をとりにくる。マスターはいやな顔ひとつしない。裕介もマスターに話を聞いてもらうのがたのしみで、よく夜中におとずれる。ときには10時をすぎても、客たちの笑い声がきこえる。
 8時35分、今夜は裕介ひとりだった。
《国際ソフィア大学》は、入学難易度でみれば全国でベスト10に入る難関だ。偏差値の一流・二流は関係ないとしても、裕介もおもってもみなかった。愛人と言ってよいのだろうか、そんなタイプの女性が、まさか自ぶんのちかくにいるとは――。
「毎月2回のデイトをして、10万円の契約なんだって」
「それで、細木というひとは、お金がつづかなくなったってわけかい?」
「約束の日を1週間も過ぎているのに、まだ今月分を銀行に振りこんでいないらしいんだ」
「月給はどれくらい?」
「手に入るのが15万円だって」
「それはきついよ」
 マスターは声をたかくする。
「彼女に10万円払って、そのうえ月に2回のデイト代だろう。それだけでサラリーが飛んでしまう」
 少ない預金をくいつぶし、5月・6月はなんとかしのいだ。が、すぐに底をついた。どうしてもお金がたりない。生活費にいきづまってきた。
 7月にはボーナスがでた。しかし、営業成績におうじて支給されるので、保全担当の細木は基本手当の3万円だけだ。
 金策に走りまわったが、どうしてもお金がつくれない。来る日も来る日も細木は思い悩み、おもわずパチンコ店でバカなことをしてしまった、というのだ。
「まさか、裕介にお金を貸してくれというんではないだろうね?」
 マスターは洗いものの手を止めて、心配そうな顔をした。
「いや、ちがうんだ。僕にその女性と会ってきてほしいというんだ」
「裕介に?」
 うなずく。
「自分じゃ言いだしにくいから、お金を待ってほしいと、代わりにつたえてほしいんだって」
 マスターは眉をひそめる。
「それに、キャンパスでの彼女はどういう女の子なのか、おなじ大学の学生からリポートを聞きたいらしくてね」
「その娘は、第三者がはいるのをみとめないと思うよ。ドール契約なんて、おおやけにして胸をはれることじゃないんだから」
「それが、向こうにも電話で話して、OKをとったらしいよ。だいじな話がある。信用できる人間を行かせるから、ことづけを聞いてくれって」
「ずいぶん信用されたものだなァ」
 マスターはあきれたような声をだした。 
 裕介は、自ぶんの暮らしているちっぽけな世界が拡がっていくような気がして、胸がたかぶった。



   欠けた季節 3