欠けた季節 4  

     


     4

 裕介は《国際ソフィア大学》の正門をぬけ、ひたいの汗をぬぐった。3時を過ぎていたが、陽射しはいぜんとしてパワーをおとさない。キャンパスの舗道は干からび、白く乾いたコンクリートがまぶしいほどに照りかえす。
 夏休みに入っているので、キャンパスに学生は少ない。ときおりクラブかサークルのメンバーらしい数人が、身軽なスポーツ・ウエ アであるいている。
 細木の(裕介には使いなれない言葉だが)愛人・清水美樹は、キャ ンパスで会おうといってきた。おたがいにソフィア大生なら待ちあわせ場所をまちがわないというのが、彼女の言いぶんだ。
〈いくら夏休みといっても、ドール契約が知りあいにばれる心配はしてないのかな?〉
 教養科目の講義がおこなわれる1号館へ行った。建て坪だけでも小学校の校庭くらいはじゅうぶんにある、横にどっしりとした5階だてだ。
 正面中央の玄関よこには、連絡事項がはりだされる掲示板がある。 黒板ほどの大きさのものが3枚つながっていて、その前はオープン ・スペースになっている。待ちあわせには最適の広さだ。しかもスペースをはさんで掲示板の反対がわにベンチがならべてある。ふだん、多いときにはあたりに数十人がたむろしている。清水美樹が指定したのも、この場所だ。
 卒業研究にでも出てきている4年生だろうか、男がひとり掲示板 をながめていた。
 裕介は男から離れ、ベンチに腰をおろした。ベンチは陽に焼けて熱かった。
〈長い時間待たされたら、たいへんだなぁ〉
 肌をじりじりやく陽光に、顔をしかめる。
 腕時計をみると、あと2〜3分で約束の3時半になる。首をめぐらしてあたりを見まわしたが、女性はいない。
 ジーンズの後ポケットからハンカチをとりだし、ふきだす汗をぬ ぐう。
 掲示をみていた男が立ち去った。
「――裕介くん?」
 いきなり名を呼ばれ、跳びあがって振りかえった。
 いつのまにか後ろに、メガネをかけたショート・カットの女性が立っていた。
「あなたが裕介くん?」
「はい」
 裕介はうなずいた。
〈このひとが清水美樹?〉
 細木がいったような、清楚な令嬢という感じではなかった。知的で、気が強そうな顔つきだ。彼女は裕介を値踏みするように、無遠慮にながめまわす。裕介には苦手なタイプだ。
「言っておくけど、わたしは美樹じゃないわよ」
〈え? じゃあ、誰なんだろう?〉
 思ったが、口にだせなくて、首をひねった。
「あの娘がまたバカをしようとするんで、わたしがチェックに入ったのよ。いいこと――」
 メガネの下から、きつい眼差しが刺してくる。
「美樹を脅して、金やからだを奪おうなんて謀ったら、承知しないわよ」
「いえ、そんなつもりは――」
「そのようね」
 彼女は口もとに笑みつくった。白いTシャツの下に色あせたジーンズをはいている。服装に気をつかっていないのが見てとれた。
「悪くおもわないで。たまたま美樹から話をきいて、わたしがむりに割りこんだの。あの娘が仕組んだのではないわ」
 裕介はうなずく。
「ちょっと待ってて」と彼女は言葉をのこし、裕介のよこをとおりぬけ、校舎へあるいていく。後ろすがたの肩甲骨がめだつ。刈りあげたショート・カットが、校舎のなかへ消えていった。
 ほっと息をつくひまもなく、入れちがいのように同じ正面玄関から、セミロングの女性がでてきた。ナチュラル・ブラウンの毛先が、 肩をくすぐっている。さわやかなブルーのワンピースが、ほっそりしたシルエット・ラインをえがいている。
 彼女は微笑みをたずさえ、ベンチにあゆみよる。真夏の太陽にさらされた肌は、いたいたしいほどに白い。
〈まさか――〉
 あわてて立ちあがり、彼女と向かいあった。
「はじめまして。清水美樹です」
 おじぎをすると、長い髪がゆれた。ものしずかな声だが、発音はクリアで、耳にここちよく響いた。
 裕介も名のり、頭をちょこんと下げかえす。
 細木の言っていた出会いのおどろきが、よくわかる。彼女のすこし茶色い瞳は、子どもの世界に住んでいるように澄みきっていた。
「暑いなかを来てくださったのに、さっきは失礼をしてごめんなさい」
「いえ」
「彼女はわたしのことを思って、いつも考えすぎた行動をとってしまうの」
 裕介は話をどう進めていいのかわからなくて、とまどう。
 4年生の美樹は、裕介より2つ年上のはずだ。
「池のそばに移ればどうかしら? 樹陰なら涼しいとおもうわ」
 裕介は「はい」としか答えられなかった。彼女が予想していたタイプとちがったので、どう向きあえばいいのか迷う。
〈見るからにそんなタイプの女性なら、もうすこしフランクに話もできるんだけど……〉
 1号館の陰になる道をあるきながら、横目で彼女をぬすみみる。くもりのない、さわやかな横顔だ。
〈ほんとうに、この女性でまちがいないのだろうか?〉
 不安になってくる。
 美樹は天気の話でつなごうとするが、裕介はなま返事をするのが精いっぱいで、話はつづかない。
 池までの200メートル、時間にして2〜3分をもてあまし、とても長くかんじられた。
 キャンパスにある池は、向こう岸まで50メートルくらいある。野鳥も多く、シギやチドリが翔びかい、カイツブリが水草をかいて餌をついばむ。さえずりを耳にすると、こころがやすらぐ。
 ほとりには四季をいろどる種々の樹木がうえられ、美しい風景をかもしだしている。じゅうぶんな間隔をおかれたベンチは、いつも人で埋まっている。秋になると、ソフィア大生どうしのカップルが黄昏に肩をよせあい、仲むつまじいシルエットがうかぶ。
 さすがに、夏休みは人がすくない。向こう岸で3人の男が池にむかって詩吟をえいじている。よくとおる声だが、自然の音にとけこんで風景になじんでいる。
 木の葉が頭上をすきまなくおおっていた。樹陰はまぶしさのトーンもおちて、目をおちつかせる。ひんやりした空気が肌にやさしく、樹の香りもかぐわしい。
 ベンチにならんで、腰かけた。
〈恋人どうしなら、すてきだろうなぁ〉
 とうとつに浮かんだ想いをあわてて打ち消した。
〈何をしにきたのか、忘れちゃだめだ〉
 ドール契約、つまりは肉体をお金と交換している。そうした女性のこころが、裕介には理解できない。まして、彼女のような美しいひとが……。
 美樹のまなざしは、おだやかに水面にそそがれている。肩さきをわずかにおおうブルーの袖ぐちから、細い腕がむきだしになっている。
 白い腕が植物のように男の裸にからみつく――性のイメージになまめかしさを感じて、裕介は目をそらした。
 美樹は裕介のほうを向いた。
「裕介くんは2年生だとうかがったのだけど、学部はどこかしら?」
 裕介さんが、裕介くんにかわっていた。わるい気はしない。
「経済学部です」
「専攻は決めているの?」
「これといって、特には……」
 入学するのに、どうしても経済学部でなければならない、というわけではなかった。理科系はにがてだ。文学・歴史系統はあまり関心がないし、就職のときも不利だときく。のこりは社会科学系になるので、法学部か商・経済学部または社会学部、ばくぜんとした考えできめていった。最終的には偏差値と試験科目・出題傾向などを比べ、裕介にとって他の学部よりほんのすこしでも合格しやすかった経済学部をえらんだ。
 美樹は、裕介に話題をあわせようとする。
「わたしは経済学にくわしくないのだけどれも」
「僕も、全然くわしくないんだ」
 裕介は照れ笑いをつくった。ほとんど講義にでていない裕介には、 なにも話せなかった。
「清水さんは」
“裕介くん”と呼ばれるからといって、“美樹さん”とは言えない。
「――教育学部でしたね」
 美樹が教育学部というのは、細木から聞いていた。
「ええ」
「学科は?」
「心理学科なの」
「心理学か。難しそうだなァ」
「どんな学問でも、真剣にとりくめば深くて、難しいとおもうわ」
 裕介も視線を彼女にとめ、まわりの風景が目に入らなくなっていた。
「カウンセラーになるの?」
 美樹は目を伏せる。
「そのつもりだったわ」
「つもり?」
「そう、つもり」
 彼女は裕介から視線をそらしていた。
「いまは、別の目標があるから」
〈別の目標?〉
 だが、それ以上は訊けなかった。
〈ほんとうに、美樹さんは“愛人”なのだろうか?〉
 どう見ても、彼女はそんな女性には見えなかった。自ぶんがここまで仕入れてきた話や、頼まれてきた役わりが、ひどく嘘っぽく思えてくる。
「ごめんなさい」
 美樹が声をあげた。
「わたしばかり、おしゃべりしてしまって」
 裕介は首をよこにふり、笑みをかえす。二人はおたがいの間の距離がすこし縮まっているのをみとめあうように、柔らかなまなざしをかわしあう。
 裕介はためらいがちに、重い問いを口にしようとする。
「……ほんとうに」
 美樹がまつげをふせた。
 ドール契約が真実なのだとわかった。
 彼女はすこし間を置いて、口をひらいた。
「さ来月、9月の中旬に、U共和国への留学試験を受けるの」
「U共和国!?」
 大声をだしていた。
 U共和国はこれまで7年ちかくも内戦をくりかえしていて、日本との国交も長く閉ざされていた。
「おととし停戦したのは知っているでしょう。復興へ向けて、すこしずつだけど開放政策がスタートしているのよ」
「また戦争が始まるよ」
 美樹の表情が硬くなる。
「そうね、また始まるかもしれないわ。だからこそ、いま行かないと」
「どうして?」
 そんな国へ行きたがる気持ちがわからなかった。
「どうして、そんな国へいきたいの? 帰ってこれなくなったら、 どうするの? もしかして、また戦争が始まったら、死ぬかもしれない」
 彼女は裕介から視線をはずし、空を見上げる。
「人間って、いつか死ぬ。自ぶんの最期がいつなのかわからないけど、人はだれでも、確実に命をカウント・ダウンしてるのよ」
〈命をカウント・ダウン……〉
 美樹はふたたび顔を裕介へ向ける。
「こうしている間にも、わたしも裕介くんも、1分1秒ずつ死へ向かっているのよ」
 美樹は微笑む。どこか哀しそうな影も見える。
「もし自分の命があと6カ月だと言われたら、裕介くんなら何をするかしら?」
〈命があと6カ月しかなかったら―― 〉
 想像できない。現実感がなかった。
 ことばを返せないでいると、美樹が言った。
「わたしはU共和国の土を踏むわ、どうしても」
 燃える対象がない裕介には、夢を言い切る彼女の情熱がうらやましかった。
 裕介は考えがまとまらず、混乱していた。
 美樹は、夢を実現するためにはお金が必要だと言う。
「いまは、試験勉強の時間がすこしでも欲しいから」
 試験を受けるまでの間、学習塾の講師や家庭教師のアルバイトを減らしているという。
 それまでは日曜日も休まずに、ほぼ毎日働いていたという。
 美樹は学費も生活費も、自ぶんで払っているらしい。
 思いもよらなかった。親に学費をだしてもらうなんて、あたりまえ、皆そうだとうたがわなかった。まして生活費を自ぶんで稼ぐなんて、頭のすみにも浮かんだことがない。
「……なんだか、わからなくなったよ」
「なにが?」
「いままで考えていたイメージと、全然ちがっているんだ」
「どういうこと?」
 裕介は口にだせなかった。
〈男性とお金で契約をむすぶような女性のなかに、こんなにしっかりした生きかたをしている人がいるなんて〉
「わたしはどんなことでも、できるだけ自ぶんの目でたしかめてみたいの。人間って、ほんとうはなにも知らないことが多いとおもうの」
〈美樹さんが出ていこうとする世界の広さに比べて、自ぶんはなんて狭い世界にとどまっているんだろう――〉
「試験まで、あと2カ月だね」
「そう、あと2カ月よ」
 美樹は視線を落とし、硬い表情になった。
 陽の光は頭上をおおう枝葉にさえぎられ、足もとの土はしめっている。
「試験は難しいの?」
 美樹はうなずいた。
 受験者のなかには、歴史研究者や政治学者、画家や音楽家、民間企業からの科学技術者までいるという。長く閉ざされていたU共和国の土を踏もうとする人たちが、さまざまな分野から集まってきているらしい。
 彼女は天を見あげる。葉が広い範囲にむらがって頭上をおおい、 空はのぞけない。こぼれる陽はわずかだ。
「ところで、細木さんの伝言というのは何かしら?」
 裕介は口ごもる。彼女が自分の夢の実現のためにお金が必要だったと知り、気軽にはつたえにくい。細木が自ぶんに頼んだのもわかる。
「遠慮しないで。なにを言われてもおどろかないから」
「……細木さん、いまは経済的に苦しいらしいんだ。それで、今月はすこし、待ってほしいって」
「なんだ、そんなことなの」
 おどろくほど、すぐに応じる。
「心配してくれなくても、1カ月や2カ月収入がとだえたって、どうにかできるわ」
 美樹はあかるい声でいった。
 しかし最後まで、なぜU共和国へ行きたいのか、ことばをにごした。



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