欠けた季節 5  

     


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「ちゃんと食事はとってるの?」
 合鍵で部屋に入ってきた母が、声を張りあげる。
 日曜の朝、9時まえ。裕介はまだベッドのなかにいた。母はいつもマンションに突然やってきて、愛情とも怒りともつかない感情をぶつけはじめる。いまでは月に1、2度に減ったとはいえ、定期的にやってくる台風だ。
「ほんとうに、ちょっとぐらい遠くても家から通えばいいのに」
 いらだちながら、散らかっている部屋をかたづけだす。
「いつまで寝てるの。シーツを換えないと、ダニがわくじゃないの」
 裕介は起きあがり、寝ぼけまなこで壁に背をもたせかける。
 きょうも暑くなりそうだ。開け放たれた窓から、なまぬるい風がおしよせる。
 裕介が家をでたのは、一昨年の秋だった。当時高校3年生だった裕介は、放課後は予備校にかよっていた。郊外にある自宅は、鳥絃市内の予備校まで1時間ちかくもかかる。
『受験生なのに、予備校までの通学時間がもったいないよ。学校から予備校までは30分で行けるけど、予備校から家まで1時間もかかってしまう。予備校のちかくに住めば、学校への通学も近くなるし』
 以前からクラスメイトのなかにも、勉強のためと言いわけして、自宅とはべつに部屋を借りてもらっている者が何人かいた。
 裕介もいろいろと理由をならべたて、夏休みが終わるとワンルームの安いマンションを借りてもらった。結局は、母から逃れたい口実にすぎなかった。『一流にかよわないといけない』といって、最初に自宅から遠い予備校をえらんだ理由も、半分はそこにある。
 裕介が3歳のとき、両親は離婚していた。わかれた詳しいいきさつは知らない。裕介もほとんど父親をおぼえていない。強い母にいわせると、父というひとは『よわい人』だったそうだ。裕介も、幼いころには父はどんな人だろうと想いえがいたときもあったが、いまでは会ってみたいという気さえおこらない。
 女手ひとつで裕介と2歳下の妹・裕美をそだててきた母は、子どもたちを溺愛してきた。とくに裕介が成長するにつれ、愛情は盲目的につよくなっていった。腰にヒモをつけられ、つねに母の手もとにたぐりよせられる。裕介は母の監視のもとで、厚い保護の壁に閉ざされた日々をおくっていた。
 裕介は息ぐるしくなって、愛の檻から逃げだした。最初のころは、母はほとんど毎日、掃除や洗濯・食事のせわをしにやってきた。『ありがたいんだけど、あまり来られると、気が散って勉強がはかどらないよ』
 言うと、1日おきのペースになった。
 あのころにくらべれば、大学生になってからの週に1度のペースは、ぜいたくな悩みといってよい。しかも最近は週1回のペースもくずれだし、裕介は月に1度か2度の台風をがまんすればよかった。
「ちかごろの大学生は留年が多いって、この前テレビでやってたわよ。学校の勉強はだいじょうぶなの?」
 息子が大学生になってまで、あいかわらず干渉してくる。
「大学のほうはだいじょうぶ」とこたえておいた。実際には、ほとんど講義にでていない。2年生から3年生にあがるときに、成績によって進級の審査がある。このままいけば、留年するかもしれない――。
「せっかく一流の大学に入ったんだから、いい成績で卒業して、いい会社には入らないと。大企業や官庁につとめるのと、小さな会社で働くのとでは、一生が大違いなんだから」
 母は大声でいつものセリフをくりかえす。掃除機を手にしながら。
「裕美も、もうすこし成績があがるといいんだけど」
 妹は高校3年生、来年が大学受験だ。母の関心はいま、裕介から受験生の裕美へとじょじょに重心をうつしていっている。裕美には気のどくだが、裕介にはありがたい。
「あんたもそうだけど、あの子は欲がなさすぎるのよ。女だって、社会にでれば男と対等にやりあう世のなかよ。ぜったいに高い学歴が必要よ」
 母の意見には口をはさまない。黙って聞きながせば、ことはあらだたない。
「ほんとうに、あんたは大学に入ったら家にもどってくるかと思ってたら、また遠い学校をえらぶんだから」
 いきどおりを床にぶつけている。
 わざと遠くを選んだのではないが、自宅から大学まで片道1時間40分もかかってしまう。当然のように、裕介は同じマンションにいすわった。
〈母さんも、子ばなれしなきゃいけないんだ〉
 いまは、母と離れてくらしていたい。
 裕介は自ぶんの意思で、もっと自由に思いどおり生きてみたかった。思いどおりに……。
「店のほうはどう?」
 母は父とわかれてから、ちいさな商事会社の事務や生命保険の外交員など職を転々とし、同時に夜間もスナックなどに勤めていた。
 裕介が中学2年生のとき、母は郊外の駅前商店街に店舗をかり、ちいさな食堂をはじめた。あたりに外食の店がまだ1軒もないころだ。都市の開発がすすむと同時に、種々の産業もひらけ、多くの会社の設立とともに流れ入る人口も増えた。1年もたたないうちに常連の客もついて、店は運よく軌道にのった。
 裕介や裕美に手つだわせることはいちどもなかった。手つだえというかわりに、『勉強しなさい』が母の口ぐせだった。
「店はよくもなく、わるくもなく、あいかわらずよ」
 いまでは店員をやとい、母もらくができている。
「かあさん」
「なに?」
 掃除機をとめ、裕介の顔をみる。
「僕、アルバイトをして、自ぶんで生活してみようかな」
 美樹に会ってから、ずっと考えていた。
「なにをバカなこと言ってるの。そんなこと簡単にできるわけないでしょう。べつに家がお金にこまっているわけじゃないんだから、勉強だけしてればいいのよ。働きだしたら、たんまり返してもらうから」
 母はふたたび掃除機にスイッチを入れようとしたが、また顔をあげ、心配そうにたずねてくる。
「お金が足りないの?」
「いいや、ちがうよ。お金はじゅうぶんだよ」
「だったら、いいじゃないの。なにを言いだすんだろうね、この子は」
 裕介はうまく説明できそうにないので、口を閉じた。
 母はそれから床にぞうきんをかけ、掃除がおわると、持ってきたスーパーの袋から、食材をキッチンにひろげた。
「栄養つけないと、病気になるじゃないの」
 ひとりでブツブツ言いながら、料理をはじめる。
 母の包丁の音をきいていると、裕介は自ぶんがひどくわがままに思えてきて、申しわけない気持ちになる。
 ひさしぶりに食べた母の料理が、胃袋から胸へとしみていった。



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