欠けた季節 6  

     


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「なにも連絡がないけど、どうなったのかな?」
 裕介はカウンターに肘をついていた。
 美樹と会ったあと、すぐに細木の会社へ電話をいれた。
『それはどうもありがとうございます。いつもいつも、まことにあいすみません。ほんとうにお世話になりまして』
 細木はうれしそうに早口でこたえた。ほかの社員のてまえ、社用をよそおっていたようだ。仕事ができないといっていたが、ふだんとは違うビジネスライクな応対は裕介には驚きで、さすがに社会人をかんじさせた。
 その夜、あらためて裕介のアパートにお礼の電話がかかってきた。
 それから2週間がすぎていた。
「連絡をとれない、あるいはとりたくない理由があるのかもしれないね」
 マスターはそう言うと、裕介のまえにコーヒー・カップをおいた。
 きょうの《ガーデン・ハウス》の客は、カウンターの裕介のほかには一人しかいなかった。その男性は、壁ぞいのテーブルでスポーツ新聞を読んでいる。
 裕介はカップを手にとった。《ガーデン・ハウス》でコーヒーの香りをかぐと、いつも気ぶんがリラックスする。
 一日のうちで最も気温が高いころだ。ウインドウごしにみる外の世界は太陽に照らされ、建物も人も映え、空気でさえもひかり輝いている。毎日エアコンの効いた部屋に座りつづけている裕介には、遠い世界にみえる。
 ネズミいろや薄い土色の作業着をきたひとが、汗をぬぐいながら働いているのをみかけると、なにか自ぶんが悪いことをしているような気さえした。
 働くことの大変さをいくら耳にしても、本で読んでも、実感はできなかった。
 ただ、真夏の太陽に照りつけられながら黙々と仕事をこなすのは、自ぶんにできないのは確かだった。
 しばらく、細木と美樹の話をマスターとかわしていた。
「いいのォ、暇人はー」
 会話をさえぎる大声につづいて、荒々しく新聞をたたむ音がした。
 裕介は首をまわし、ななめ後ろをふりかえった。
 声をあげたのは、さきほどからスポーツ新聞を読んでいた男だ。裕介よりははるかに年上。しかしマスターよりは年下だろう。30歳は過ぎているようだ。声の大きさとは逆に小柄で、骨ばった体つき。粗い髪の毛先がとんがっていた。くぼんだ目は神経質そうに充血し、刺すような目つきが裕介を射ぬく。
「おまえ、大学生か?」
「はい。そうです」
「学生はひまでしかたないから、バカなことに首をつっこむんだ」
 新聞を読んでいるふりをして、マスターと裕介の話にじっと聞き耳をたてていたらしい。
 いきなりの失礼な発言に、裕介は納得できなくて、男のほうへ半身を向ける。
《ガーデン・ハウス》で見かけるようになったのは、1カ月ほど前からだ。ちかくのアパートかマンションにでも引っ越してきたらしい。《ガーデン・ハウス》には2日に1度ぐらい来ていたが、ほかの客ともマスターとも、なにもしゃべらなかった。裕介がいちど会釈したときにも、なにも返してこなかった。
 しかし今は、裕介が男の顔に目をとめると、噛みつくように視線を撥ねかえしてきた。
「大学なんかにかよって、金を捨てるようなもんだ。親のスネをかじって、高い学費を払ってもらって、何の役にたつ? えっ、言ってみろよ!」
 男は目をむき、あごをつきだす。
 裕介はことばにつまる。答が、みつからない――。
 マスターが話をそらす。
「お客さん、きょうはお仕事は休みですか?」
「おれはフリーライターだ! 時間の奴隷になっているような、会社の犬じゃない。自ぶんで自ぶんを管理しているんだ!」
 ツバをまきちらすように怒鳴った。
 裕介はマスターの顔を見た。マスターは笑みをつくっている。いつもとかわらないように装おうとしているのがわかる。
 男は吐きすてる。
「大学なんか、やめてしまえ!」 
 いま、裕介がいちばん言われたくないことばだった。しかし裕介には、言いかえすことばがない――。
 男はなおも、大学にかよう意味を問いつめ、裕介を責めたてつづける。
「……もう、わかりました」
 やっとの思いで、声をだした。
「何がわかっただ? おまえのためを思って言ってやってるんじゃないか。恩しらずなやつめ」
 男はさらに声を荒げる。
〈どうして、こんなふうに言われなければならないんだろう……〉
 裕介は足下に視線をおとしたまま、顔をあげられない。
 マスターがいつになく低い声で男に語りかける。
「お客さん、もっと自ぶんに自信をもったらどうです?」
「自信?」
 バカにしたように、笑いのまじった声でいいかえす。
「おれは自信に満ちあふれてるさ」
「じゃァ、どうして他人がそんなに気になるんです?」
「だから、言ってるだろう!」
 男はヒステリックに叫ぶ。そして、あごで裕介をさし示す。
「こいつのためを思って、忠告してやってるんだ」
「ひとに忠告したからといって、あなたの正しさや存在や、自信が証明できるわけじゃない。自ぶんの存在をみとめさせたいなら、あなた自身の行動でしめしなさい。ほんとうの自信というのは、もっと大きな余裕があるものだ」
 男は目をむき、唇をふるわせる。
 マスターはことばをつづける。
「あなたは他人を否定することでしか、自ぶんの存在をたしかめられないんだ。それはなぜなのか、よく考えてみなさい」
「黙れ! おれは、たかがコーヒー屋に説教されるような人間じゃない」
 マスターの低い声と、男の高くうらがえった声が対照的だ。
「他人を見くだすのは、そうしなければ自ぶんを支えられないからだ。自信のない自ぶんを――」
「うるさい! おまえは、だれに向かってものを言ってるんだ。おれは客だぞ」
「私はお客さんを公平にあつかう。お客は皆、私の友人だ。彼も、私のだいじな友人だ」
 マスターは裕介を“友人”といってくれた。そのことばがこころにしみいり、胸の痛みをやわらげる。
「友を傷つける人間は、だれであろうとゆるさない」
 男は顔を真っ赤にして、マスターをにらみつけている。
「これはお願いだ。他人にとやかく言うより、もっとほんとうの自ぶんをみつめなさい。自ぶんのコンプレックスから逃げてはだめだ」
 マスターの目は、どこか哀しげだ。
「こんな店、2度ときてやるか!」
 男は怒り、立ちあがった。いきおいでテーブルが倒れ、騒々しい音をたてた。力をこめて大きな歩幅で一直線にドアへむかい、扉を突きとばし出ていった――。



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