欠けた季節 8  

     


     8

 翌朝、裕介は午前7時に目覚ましをセットしていたが、目覚ましが鳴る30分も前に目がさめた。家を出る予定は8時。待ちきれなくて、10分前にマンションを出た。
 太陽はまだ低いが、夏の朝陽は、街を真昼の明るさでてらす。気温はまだピークに遠く、湿度も優しい。朝陽をあびるのはひさしぶりで、すがすがしい気分につつまれる。
 美樹はできるだけアルバイトを減らし、受験勉強に打ちこむ毎日だと言っていた。《ソフィア大学》の図書館で、自習室に座りづめだと聞いていた。
〈早く美樹に会いたい〉
 電車が駅につくまでがこんなに待ちどおしく、もどかしいのは初めてだ。
 ようやく駅に着き、改札をでた。
《国際ソフィア大学》正門への広い通りは《ソフィア・ストリート》と名づけられていた。ショッピングモールがつづくソフィスティケイトされた通りに、夏休みというのに大学へ向かう学生がつづいていた。裕介と同じく図書館へいく者もいるだろう、目的はちがうけれど。
 8時55分。今年はキャンパスに午前中に入った覚えがなかった。校門をくぐるとき、1年あまり前の希望にあふれていた入学当初が想いだされ、せつなくなった。
 正門からすこしいくと、奥へむかって本館・1号館・2号館、そして図書館とつづく。建物の左がわにまわり、舗道をあるいていく。図書館までは、あるいて7〜8分かかる。自然と足が速くなった。
 1号館を過ぎ、2号館にさしかかったとき、建物の側面口から、女性があらわれた。数メートル前方の横顔に、裕介は足を止めた。ジーンズにTシャツ、骨ばった体つきがかもしだす雰囲気を、裕介は忘れていなかった。向こうもこちらに気づいたらしく、刈りあげたショート・カットが、正面をむいた。意志のつよそうな目が、メガネの奥から裕介をとらえていた。彼女はさほど驚いたようすもなく、顔を向けたまま「こんにちは」と、あゆみよってくる。
 裕介もあいさつをかえす。
〈これから美樹と会おうというときに……〉
 彼女は裕介のまえで立ちどまった。
「きょうは、何の用事?」
 こたえる裕介は、声も堅くなってしまう。
「美樹さんがだいじょうぶか、ようすを見てきてくれって言われて……」 
彼女が目をみはる。
「また会いにきたの?」
 知らなかったようだ。
〈出会ったのは偶然だったんだ――〉
 この前のときのように、裕介を待ちぶせていたのではなかった。気づいたときには遅かった。
「裕介くん、だったわね」
 うなずく。
 彼女の目が、いたずらっぽくわらう。
「美樹に惚れたの?」
「ちがいます!」
 おもわず大声をだしていた。
 たしかに美樹が好きだ。しかし、それは人間として尊敬しているのだ。惚れたなどというものではない。いつのまにか、自ぶんにむかって、言いきかせていた。
「べつにあなたが美樹をどう思っていようと、あなたの自由よ」
 彼女はおちついた口調でいった。メガネの奥も冷静な表情にもどっていた。
〈なにを慌てているんだ、僕は〉
 恥ずかしくなる。
「わざわざごくろうさま。コーヒーでもごちそうしてあげるわ」
「え?」
 突然の申しでに、裕介はとまどう。
「嫌なの?」
「いえ……」
「じゃあ、行きましょう」
 彼女は先にたって、歩きだした。出てきた2号館とは反対方向に、つまり裕介からむかって左手にどんどん進んでいく。
〈1秒でも早く美樹さんに会いたいのに……〉
 2号館のむこうには、図書館の屋根が見えている。視線を手前にもどすと、突きでた肩甲骨が「ついて来い」と言ってるかのように、どんどん離れていく。裕介はしかたなく追いかける。背後に遠ざかる図書館に、こころを引かれながら。
 横にならぶとすぐに、彼女が口をひらいてきた。
「熱帯の国から来た人たちでも、日本の湿度の高さにはまいるそうね」
「は、はあ」
 裕介はどう合わせればいいのか、わからない。話しつづける彼女に、あいづちをうつだけだった。
 学生会館と体育館に挟まれた道をとおりすぎていく。
「どこへ行くんですか?」
 学生会館のなかの喫茶店へ入るのかと思ったのだが、違うようだった。
「クラブ・ハウスよ」
 彼女はメガネで、体育館のむこうに見える建物をしめした。クラブ・ハウス1号棟だ。5階だてのクラブ・ハウスは3棟あり、平行にならんでいる。それぞれのクラブやサークル・研究会に部室が割りあてられている。基本的には活動メンバーが7人以上という条件をパスすれば、大学の公認団体となり、空室の使用許可がおりる。しかしメンバーが7人に満たなくても、その活動意義が認められれば部屋は使用できた。メンバーの数や活動内容によって部屋の大小はあるが、3棟あわせると、ネーム・プレイトはおよそ200かかっていて、空室は数えるほどしかなかった。
「何かクラブに入っているんですか?」
 彼女はこたえずに、
「行けばわかるわ」
 と前をむいてあるきつづけ、
「他人のいるところで、美樹の細かな話はできないからね」
 と、つけ足した。
 美樹の話、といわれて、裕介はこころが前へむいた。
 体育館のかげから見えていた1号棟ではなく、その右にならぶ2号棟へはいった。エレベーターで2階へあがり、いちばん奥のちいさな部屋のまえに立った。ルーム・プレイトをみて、裕介は立ちすくんだ――。
〔フェミニズム研究会〕
 逃げだしたくなった。最近テレビで売りだし中の、中年の女性学者がフラッシュ・バックした。『男は、われわれ女の、人間としての尊厳を搾取し、人間としての可能性を抹殺してきた!! 人類の歴史は、男どもに虐殺されてきた、女の血と涙の歴史だ!!』自ぶんが裁判の被告席にたたされ、大勢の女性から責めたてられる、イメージが襲った。
 隣でドアをたたく音に、現実へ呼び戻される。
「どうぞ」
 部屋のなかから、女性の声がかえってきた。
 裕介は覚悟をきめた。弱気になった自ぶんを恥じた。美樹に顔むけできない人間だけには、なりたくなかった。
 メガネの彼女がノブをひいた。
 目でうながされ、裕介は部屋に足をふみいれた。
 長方形の大きなテーブルが縦に置かれ、奥行きのある左右の辺に2人ずつ、そして奥に1人がすわっていて、計5人が顔を裕介に向けていた。もちろんそれぞれに顔はちがうが、5人ともメガネをかけていて、しかもみな似たようなインテリっぽいフレイムなのがどこかおかしかった。
〈わらっちゃいけない〉
 笑みをこぼしたら、『何がおかしいのよ?』とからまれる恐れがある。裕介は奥歯をかんで自ぶんの表情を殺そうとつとめた。
 裕介のとなりで彼女が一歩まえにでて、誰にともなく、声をかける。
「30分ほど、部屋をあけてくれる?」
 いちばん奥にすわる女性がこたえる。
「いいけど、部屋で変なことしないでね」
 裕介はうろたえる。言った女性は平然としている。 
 女性たちは無表情に椅子からたちあがった。ドアへむかって歩いてくる。裕介は道をあけた。奥から歩いてきた女性はよこを通っていくとき、「隣に声がもれるから」と笑みをうかべた。裕介はどうこたえればいいのかわからなくて、とまどう。となりの彼女をみると腕ぐみをして、薄笑いをうかべている。
「どうぞ、ごゆっくり」
 最後のひとりが部屋をでて、ドアを閉めていった。
「どこでも座って」
 言われて、裕介は目のまえの椅子に腰をおろした。
 低い音で、ジャズがながれているのに気がついた。曲名はわからないが、軽やかに弾む女性ヴォーカルに聞きおぼえがあった。部屋のおくにコンポが置いてあった。
「コーヒーはホット? アイス?」
 彼女は部屋のすみで、コーヒー・メーカーをセットしていた。
 裕介は、自ぶんが『コーヒーでもごちそうするわ』と誘われたのをおもいだした。
「どちらでもけっこうです」と答える。ほんとうは喉が乾いて、冷たい飲みものが欲しかったけれども。
 彼女の名前をたずねたかったが、とうにタイミングを逃していたので、いまさら訊くのは気が退ける。彼女が自分から名のってくれるのでは、と機会をまった。
 彼女はコーヒー・メーカーをセットし終え、テーブルのコーナーを挟んで、裕介の右手にすわった。
「きょう話しておかないと、すくなくとも2〜3年は顔を合わさないから」
 意味がわからなくて、ことばの続きを待った。
「8月1日に日本を発つの。アメリカへ留学するの」
〈この人も、留学をめざしていたのか〉
 しかも、出発は1週間後に迫っている。
「何の勉強にいくんですか?」
「フェミニズム」
 彼女のメガネが光った。
〈フェミニズム、やっぱりその話か〉
 裕介は背すじをただして、身がまえる。
「心配しなくていいわよ」
 彼女は微笑む。
「あなたにレクチュアしてあげようっていうのではないから」
 裕介は背すじの緊張を解いた。
「ただ、これだけは理解しておいて。わたしがアメリカで築こうとしているフェミニズムは、いまの日本のマスコミが騒いでいるような低次元のものではないわ。ただの痴漢と、セクシュアル・ハラスメントの区別がついていないような、うわっつらのフェミニズムではない。社会において男性が与えられている権利を、おなじ人間として女性にも当然保証するべきだと主張しているの」
 裕介はただちにうなずく。
「また緊張させてしまったわね」
 彼女は立ちあがった。
 コーヒー・メーカーの音が止まっていた。彼女はふたつのカップにコーヒーをそそぎ、まず裕介のまえにひとつをおいた。
「すみません」
 受け皿には、スティック・シュガーとプチ・カップ・ミルクものっていた。彼女はなにも入れず、ブラックにしていた。シュガーとミルクを入れたら、子どもっぽく見られるような気がして、裕介もブラックにした。
〈苦い〉
 口がしぼんだ。彼女が裕介をみて、口もとでわらった。裕介は平気をよそおって、日ごろからブラックに慣れているふりをした。
「美樹のこと、どう思った?」 
「すばらしい人です」
 裕介は反射的にこたえていた。 
 彼女はつまらなそうに「そうね」とつぶやく。
「あの子がやっていることはどう思う?」
 細木との契約を思いおこされ、裕介はくちびるを結んだ。夢にむかって突きすすむ美樹の生きかたに、自ぶんは足もとにもおよばない。美樹のように、燃えて生きてみたかった。人間として、尊敬していた。それだけに、ただ一つ、納得できない部分を考えたくなかった。
 頭から振り払うように、口をひらく。
「美樹さんも、この研究会のメンバーなんですか?」
 彼女はくびを横にふる。
「美樹は美樹の立場で、生きてこなかった部分を取り戻そうとして
いるわ」
 裕介は話のつづきを待つ。
「美樹は父親に会ったことがないの」
 裕介は驚きとともに、自ぶんと美樹との距離が縮まった気がした。
「美樹のお母さんは、若いころピアニストだった。まだU共和国が平和だった時代、親善コンサートのメンバーとして旅立った。そしてそこで恋をし、2人は共に暮らし、命を授かった」
「美樹さんはハーフなんですか?」
 彼女がうなずく。
〈それで、あんなに肌が白いんだーー〉
 色白とは違う、透けるような白い肌だった。瞳もライト・ブラウンで、ブルーでふちどられているようにも見えた。
「じゃあ、美樹さんはU共和国で生まれたんですか」
 彼女は首を振る。
「ビザが切れて、妊娠中のお母さんは日本に戻らなければならなくなったの」
「お父さんは?」
「当時でも、出国許可には時間がかかったわ。だけど申請は済ましていたから、許可がおりしだい、後を追って日本へ行く約束をしていた」
 彼女はコーヒーをひとくち飲んだ。
「だけど、1カ月もたたないうちに、クーデターが起きた」
「クーデター!?」
 まるで、映画のあらすじを聞いているようだった。
「そして半年後、内戦に巻きこまれ、彼は死んだ――」
〈何を言ってるんだ、この人は?〉
 ふざけるのも過ぎると、怒りがこみあげてくる。
「映画の話、みたい?」
 見つめられ、言葉につまった。
「そして、美樹をひとりで育ててくれたお母さんが、去年、亡くなったのよ」
 裕介は巨大な波に全身を打たれ、呑みこまれたようだった。
 自ぶんが何を考えているのかさえ、わからない――。
 沈黙がつづいた。
 長い静寂の後、彼女が口をひらく。
「日本を離れる前に、きみに話しておきたかったの」
 彼女は1週間後、アメリカへ旅立つのだ。
 彼女は「最後に変だけど」と前置きし、「織田万希子」と名のった。
「美樹のこと、ヨロシクね」
 織田万希子は優しい目をしていた。



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