欠けた季節 9  

     


     9

 美樹はハーフ、しかも父親が、あのU共和国の人だった。
 その父親は、美樹が生まれるまえに、不幸な死に方をしていた。
 そして、ひとりで美樹を育てた母親が去年亡くなっていた。
 たくさんの哀しみの影を、裕介はかけらも見ぬけなかった――。
「あまり神経質にならないで。こころにとめておいてくれれば、それでいいのよ。美樹には、今までと同じように接すればいいわ」
 織田万紀子は言った。
「美樹、裕介くんの印象はわるくなかったみたいよ」
 そのことばに、すこし救われる。
 裕介はいったん、どこかで気持ちを整理しようかと思った。
 キャンパスのなかをあてもなく足を進めるが、考えが浮かぶわけでもない。
 ただ、歩きまわっていた。
 永遠にでない答を待つように。
 そして、美樹を敬愛し、会いたい気持ちが、ブレーキをはずした。
 足を速め、図書館への道をいそぐ。
 11時36分。気づくと、キャンパスに来てから2時間以上もたっていた。
《国際ソフィア大学》には、各学部ごとの学部図書館と大学全体の総合図書館がある。総合図書館は3階だてだ。閲覧室やサロン調の雑談室とはべつに、各階におよそ200席、合計すると600席をこえる自習室がある。
 美樹は留学試験にそなえ、まいにち総合図書館の自習室で勉強している。7月の下旬から8月末までは(家庭教師の生徒も夏休みに入っているので、とくに要望がなければ)できるだけアルバイトを少なくして、9月中旬の受験へとラスト・スパートをかけているといっていた。
 裕介は1階と2階の自習室をみてまわる。
 1階の自習室には、8人がけのテーブルが縦5列×横5列、バス・ルームのタイルのように規則ただしくフロアにはめこまれていた。壁ぞいにぐるりと部屋をまわって全員の顔をながめたが、美樹はいなかった。
 2階の自習室は、3人がけの机がすべて同じ方向をむいて、机のついたてがドミノのように立ちならぶ。裕介はつま先立ちになって、前から見わたした。
 美樹はみつからない。
 夏休みだというのに、1階も2階も自習室は半分ちかくの席がうまっていた。卒業研究の論文をまとめたり、司法試験や公認会計士試験など目標にむかって走りつづけている。3、4年生が多いのかもしれないが、どうみても1年生らしい者もいた。
〈目標をもった人たちが、こんなにもいる――〉
 真剣に机にむかう彼らのすがたに、裕介は自ぶんだけが置き去りにされたさびしさがつのる。重い足どりで階段をのぼった。3階にも、美樹はいないような気がする。
 3階の自習室も3人がけの長いすになっているが、配置が2階とはちがう。2つの机が高いついたてを合わせて向きあい、計6人が1カ所にかたまっている。ついたては頭の高さを越え、向かいあう人の顔がみえないようになっている。勉強に集中しやすくつくってあるわけだ。また、となりとの間隔もひろくとって、気にならないようについたてで仕切られている。個室にいる感じがして、長時間すわって勉強するのにはよい。しかし人をさがすときには、ついたてがじゃまになる。順に歩いていって、横からのぞきこまねばならないからだ。
 裕介は部屋を前から後ろへとあるいていった。
 ストレートの長い髪に目がいったが、何度もがっかりした。
〈きょうは来ていないようだ〉
 部屋の後ろのほうまできて、なかばあきらめた。
 最後の机の列までいったが、やはり美樹はいなかった。
 気がぬけて、体にけだるさがおしよせる。
〈受験勉強を休むなんて、なにか大事な用でもあったのかな?〉
 裕介はぼんやり立ちつくしていた。ちかくの自習者がへんな顔をして見あげるので、ひきかえした。足を引きずるようにすすむ。
〈自ぶんの家で勉強してるのかな〉
 いないとなると、よけいに会いたくなる。
 階下にもどるまえに、トイレに入った。
 鏡のなかの顔は疲れていた。さっきまでのこころの張りがゆるんでいる。帰りの道のりを思うと、気も足も重かった。
 トイレをでて、階段を下りた。
 1階まできてハッと気づき、書物がならべられてある閲覧室に入る。いくつもの書棚をかきわけ、さがした。
 1階にはいなかったが、2階の閲覧室で見つけた!
 清楚な白のワンピースに、なめらかなブラウン・ヘアが流れる。美樹の横顔が、本棚を目で追っている。
 裕介ははやる心をおさえつつ、ちかよっていく。
 声をかける距離まできて、美樹がひとの気配にきづいて、振りむいた。口をおどろいた形にちいさく開け、瞳もひろがる。
 裕介は頭をかきながら言う。
「どうも」
 あれほど会いたいと願っていたのに、まえに立つと言葉がみつからない。
 図書館のなかなので、声を高くできない。美樹がおさえた声で訊いてくる。
「調べもの?」
「え?」
 ことばにつまった。
「あ、そうだ。そう、細木さんにたのまれて、そっと美樹さんのようすを見てきてほしいって」
 彼女は裕介の顔をみつめる。
「そっと見てくるんでしょう?」
「うん」
「そうっと?」
 顔を見合わせる。
 間をおいて、ふたり同時にククッと笑いがこもり、吹きだしそうになる。美樹は両手で口をおさえ、まわりを気にして瞳をうごかす。わらい声はだせない。彼女は両手を口にあてたままささやく。
「出ましょう」
 ふたりは閲覧室を後にした。
 裕介の思ったとおりだった。
〈閲覧室に気づいてよかった〉
 美樹は雑談室には行かず、階段の踊り場で足を止めた。
「細木さんにつたえてね、わたしはだいじょうぶだって」
 彼女は微笑みながら「だいじょうぶ」とくりかえす。
 美樹は元気に見えた。織田万紀子の語った美樹とは、別人ではないかと思えるくらい、明るく見える。
「裕介くん、お昼は?」
「まだです」
「そろそろ、お昼休みにしようとおもっていたところなの。いっしょにランチはどう?」
 裕介の胸が躍る。
 ふたりで食堂へむかった。
 キャンパスをあるくと、太陽は真上からようしゃなく照りつける。きつい陽射しに、美樹の白い肌もいためつけられているが、汗ひとつにじんでいない。まるで白いワンピースの彼女のまわりだけ、涼しさがただよっているようだ。
 図書館にいちばん近い食堂は2階だてで、300人くらいは収容できる。
 夏休みの食堂はすいていた。食券を買うひとは数えるほどしかいない。いつもならかなり並ぶのに、5台の自動券売機はあいているほうが多くて、すぐに買えた。裕介は美樹にあわせてパスタにした。
「裕介くん、それだけで足りるの?」
 美樹の優しい気づかいにつつまれ、裕介はこころが弾んだ。
〈会えたんだから、一食抜いてもいいぐらいだ〉
「朝、たくさん食べてきたから」
 とこたえたが、よく考えると朝食はコーヒーとトースト1枚だけだった。だけど、ふしぎにお腹がすかない。
 ならんでテーブルにつく。恥ずかしさと嬉しさがきみょうに入りまじる。
 食堂では、他人に聞かれてもさしさわりのない三面記事の話などをした。裕介はちかごろ新聞に目をとおしていなくて、美樹にいわれて初めて知る大事件もあった。
 昼食を終えて、池のほとりへ行った。樹陰は肌にやさしく、気もちもおちつかせる。
 前回とおなじベンチに、ならんで腰かけた。体の半分ほどの距離をおいて。
 しばらく、ことばがなかった。口を開いたのは、美樹だった。 
「万紀子に会ったの?」
 裕介はことばに詰まる。
「わたしを見る目がちがうもの」
「そんなことないです!」
 叫んでいた。
 美樹は裕介を見て微笑む。
「ごめん。冗談よ」
 裕介は息をつく。そして、織田万紀子からすこしだけ話を聞いたと言った。
 美樹は視線を池の水面にそそぐ。
 そして、ゆっくりと話しはじめる。
「……写真でしか見たことのない父は、とてもハンサムな人だったわ。でも、親戚のひとから父が不幸な死に方をしたって聞いていたから、母にも詳しくは聞いたことがなかったの」
 美樹は視線を足下に落とす。
「父だけではないわ。母についても、わたしはなにも知らなかった。母がわたしと同じ年ごろにどんな恋をして、どんなに父を愛して、わたしを身ごもり、どんなに大変な思いをして生み、育てたのか。……いまとなっては、訊くこともできない」
 裕介はことばをだせない。美樹を想ってというより、彼女の痛みや哀しみの深さに想像がとどかない。どんなに想っても、目の前の美樹が遠くにいた――。
 美樹は顔を上げる。
「行ってみたいの、U共和国へ」
 瞳が光を放っていた。
「行くわ、絶対に」
 裕介はうなずく。
 美樹は「ありがとう」と笑顔をみせた。
 野鳥が涼をもとめるように池の水面すれすれに飛び、岸辺の日陰におりたった。
「わたしばかりおしゃべりしてしまったから、今度は裕介くんのことを聞きたいわ」
 裕介は美樹にうながされ、すこしずつ、自ぶんの家族構成や、ひとり暮らしになったいきさつを話しはじめた。そして今、自ぶんが何をすればいいのか悩み、焦っているとうちあけた。
 美樹はときどき、裕介の話を確認したり整理したりするために短い問いを口にする以外は、うなずきながら耳をかたむけていた。
 裕介は延々と語りつづけていた自ぶんに気づいて、優しい姉に甘えてしまったような後悔につつかれる。
「ごめん……くよくよと」
 美樹はほほえみをたずさえ、くびを横にふる。
 裕介は19歳、美樹は21歳。年齢は2つしかかわらないが、裕介には彼女がはるか大人にみえる。
「もし、美樹さんが僕の立場だったら、どうする?」
「そうねぇ」
 彼女は視線を湿った土におとし、考えこむ。淡いクリスタルのようなブラウンの瞳が、深い色にかわっていく。真剣になってくれているのがわかって、うれしかった。
「軽はずみなアドバイスはできないけれど――」
 美樹は顔を上げ、裕介の目をのぞきこむ。
「いま、裕介くんのいちばんの願いは何かしら?」
「願い?」
 美樹はうなずく。
「いま、いちばん変えたいものは何かしら?」
 裕介は考えをめぐらせる。自ぶんの生活をふりかえってみてもばく然として、絞りきれなかった。
「自ぶんの毎日の暮らしで、いちばん嫌な部分が、いちばん変えたいポイントじゃないかしら?」
 裕介は考えがまとまらなくて、答が見つからない。
〈美樹さんのように目標があれば、毎日をもっと充実できるだろう〉
 裕介は肩で息をついた。
〈美樹さんとは、深さがちがう〉
 自ぶんが目標をもてないのはあたりまえだと気持ちが沈む。
 裕介を励ますように、美樹の声は明るい。
「どんなにささいな心の動きでも、目をこらして見ていけば、自ぶんを変えるたいせつなヒントになるはずよ」
 裕介は自ぶんの心を見つめた。
「……前からときどき考えていたんだけど、……アルバイトをしてみようかな。いちどもアルバイトをしたことがないんだ」
 美樹はうなずく。
「そうね、いいかもしれないわ。じっとしている時間を少なくするのも1つの方法だし。裕介くんがそうしたいなら、すこしずつでも始めてみればどうかしら。なにかを変えたかったら、まず自ぶんが動かないと、なにも変わってこないから」



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