欠けた季節 10  

     


     10

 裕介には、アルバイトの経験がなかった。
 高校2年の夏休み、友だちといっしょにアルバイトでお金をつくって旅行する計画をたてた。母は旅行はみとめたが、バイトはがんとしてゆるさない。
『お金ならだしてあげるから、やすっぽいアルバイトなんてよしなさい。みじめったらしいまねはしないでちょうだい。そこまでお金に困ってはいないんだから』。
 女手ひとつで2人の子どもをそだててきた意地なのだろうか、母は経済的な面で、必要以上に他人の目を気にしてきた。
〈でも、僕ももう大学生なんだ。アルバイトをしてみよう〉
『なにかを変えたかったら、まず自ぶんが動かないと、なにも変わってこないから』
 美樹のことばが裕介をかりたてる。
 母には言わない。止められるのは目にみえているし、よけいな心配もかけたくない。
 美樹と話した帰り、コンビニエンス・ストアでアルバイト情報誌《フリー・ワーキング》を買ってかえった。
『自分ではいいバイトは見つけにくいので、できればだれかに紹介してもらったほうがいい』と美樹はいった。しかし、裕介は自ぶんの力でスタートしたかった。
 アパートに帰って、《フリー・ワーキング》をひらいた。どの求人広告も、かるいノリのキャッチ・コピーでさそっていた。
 〔遊んで儲けよう!
    最先端のハイ・テクにかこまれた場内案内係
          夢のWORLDテクノランド〕
 〔美男子求む! 
    お客さまは若いギャルばかり、
    ラヴ・アフェアは確実。
    この夏、恋人とマネーの両手に花を!
        パブ・レストラン[エーゲの風]〕
 〔経験不要・高収入!
    時給2000円以上!
    テレフォン・アドバイザー
               豊国物産株式会社〕
『甘いことばや良すぎる条件で引きつけようとするのは、注意したほうがいいわ。実際には、よくない待遇が多いから』
 美樹のアドバイスをおもいだす。
 はじめてのアルバイトを選ぶのは、目うつりがした。情報誌は厚めの週刊誌ぶんくらいあり、ぎっしりと求人広告でうまっている。
 裕介はまず、職種をしぼっていった。腕力が必要な仕事は自信がない。特別な技能があるわけでもない。もともと、あまり社交性があるほうではない。とくに今は、人前に出るウエイターや店員などは気がひける。ぜいたくに切り捨てていっても、充分にページはのこった。
 できれば、この新灯区か近くの場所がいい。
 期間は8月末までか、大学がはじまる9月10日までの1カ月あまり。夏のアルバイトを終えて、9月になったら胸を張って大学へかよう、自ぶんの誇らしいイメージが想いうかぶ。
 時給は欲ばらない。お金をもうけるのが初めてなのだから、とにかく働く。
 いろいろと迷ったあげく、選びだした。
 〔ケースへのビン詰め
   ●7月中旬〜8月中旬まで
   ●8月上旬〜8月末日まで
      いずれも8時〜17時 日給5500円
               株式会社丸山酒造〕
〈変だなぁ? 7月中旬からの方はとっくに過ぎてしまっている〉
《フリー・ワーキング》は、最新号だ。
〈8月上旬からの方に申し込めばいい。明日の朝、電話をしよう〉
 床にころがっているデジタル時計をおこすと、もう8時17分。表紙をめくりだしたのが3時半ごろだったから、5時間ちかくも《フリー・ワーキング》とにらめっこしていたことになる。
 裕介は空腹に気づき、カップ・ラーメンをさがした。
 翌朝、裕介はしぜんに8時まえに目がさめた。
〈きょうが、新しい一日への第一歩だ〉
 とびおき、シャワーと歯みがきをすみやかにすませた。
 期待と興奮がいりまじって、みょうな感じだ。入学式の緊張にも似ている。確実なよろこびが約束されているわけでもないのに、これからの時間の1秒1秒を想像して、昂まりにむねがおどる。
 ジーンズをはき、Tシャツをかぶる。裕介の動作はテキパキしていて、むだがない。目ざめてから出かける身じたくのすべてがととのうまで、10分あまりだ。美樹に会いにいったきのうの朝とおなじくらいの速さで身じたくした。大学生になってからの、最短記録だろう。
 コーヒーをのみ、トーストを2枚たべて腹をおちつかせた。
〈よし、電話だ〉
 部屋のすみで出番をまっていた電話の受話器を、部屋の中央につれてくる。電話をかけるまえに、《フリー・ワーキング》にのっていた電話の話しかたをリハーサルした。
 意を決して、プッシュフォンをおした。
 1度、2度、コール音がなる。緊張で、裕介の鼓動がはずむ。受話器をにぎる手があせばむ。
 3度めが鳴りおわって、先方につながった。
「おはようございます。《丸山酒造》でございます」
 ほそく、あたりのやわらかい女性の声だ。
「あ、あのォ、アルバイトをしたいんですけど……」
 胸が高鳴る。あがってしまい、練習した話しかたはすっかり頭から吹きとんでいた。
「《フリー・ワーキング》を見たの?」
 相手の声がなれなれしい調子にかわる。
「はい」
 声もかたくなった。
〈しまった。まだ自ぶんの名まえを言ってなかった〉
 裕介はあわてて名のった。
「もう締めきりましたので、またの機会にお願いします」
 一方的に電話を切られた。
 裕介は受話器を耳にあてたまま、あぜんとした。
〈これからすぐに駆けつける、予定だったのに――〉
 裕介も受話器をもどした。
〈まァ、いいか。今のはなかったことにしよう〉
 ほんのすこし、運がわるかっただけだ。いちど電話のリハーサルをしたと思えばいい。
 ふたたび《フリー・ワーキング》を20分ちかくながめ、いいバイト先をみつけた。
 〔自転車による原稿配達
     8月いっぱい 10時〜18時
     時給800円 交通費全支給
                 (株)文化時報〕
〈今度はちゃんと話さないと〉
 電話のかけかたのページをみなおす。話しながらでも確認ができるように、目のまえにひろげておく。
 指がプッシュフォンを追う。呼吸はおだやかだ。2度めなので、おちついてきた。
「はい《文化時報》」
 威勢のいい、男性の声がとびだした。
 裕介は朝のあいさつをし、ていねいに名のった。
〈よし、この調子だ〉
「じつは、アルバイト募集の広告を拝見しまして――」
 話している途中で、相手にさえぎられる。
「ああ、あれはもうダメ。締めきった。そういうことで」
 切られた。
〈どうなってるんだ?〉
 まさか、2度もつづけて断られるとはおもってもみなかった。
 裕介は落胆を追いはらおうと、《フリー・ワーキング》をめくる。条件をゆるめ、目についたものを手あたりしだいに電話していった。
 午前中の2時間で7社にアタックしたが、いずれも撥ねかえされた。
 裕介はやる気をなくし、情報誌を頭ごしに後ろへほうりなげた――。

     *

《ガーデン・ハウス》で昼食をおえた。コーヒーの香りとマイルド・セブンをあいてに客が少なくなるのを待ち、手がすいたマスターに話しかけた。
 マスターはカウンターをふきながら言う。
「バイト情報誌のなかには、求人広告を月に何回とか、年に何回のせるという方式の契約をクライアントとかわすところがあるらしいよ。だから募集人員がうまっても、最初の契約どおりの回数だけはかならず掲載するそうだ」
「そういえば、とっくに過ぎてしまった7月中旬からのバイトが載っていたなぁ」
「それが1度めの広告ではなく、以前から何度もでていたんだろうね」
 カウンターに肘をついていた裕介は、上体をのけぞらす。
「じゃあ、ぜんぜん買った意味がなかったんだ」
「意味がないわけじゃない。ただ、難しいとおもうよ。いいバイトは希望者が殺到するだろうから、1回めの掲載をみてすぐに申しこまないと。しかし、ふだんなら7件もつづけて断られはしないと思うけれど」
「どうしてなんだろう?」
「夏休みは、ふだんバイトをしていない学生もくりだすからね。夏休みに入る前からさがしておかないと。夏休みに入ってからでは、簡単にはみつけにくいよ」
「僕が甘かったのか……」
「どこか知りあいをあたってあげようか?」
 マスターはキャベツをきざんでいる。ひとりで店をきりまわしているので、口をうごかしながら、たえず手も動かしている。
「もうすこし自ぶんでさがしてみるよ」
「そうだな、あせることはない。まだ休みは1カ月以上あるんだろう?」
「うん」とこたえながら、
〈もう、明日で7月も終わりだ〉
 考えると、ためいきがでそうになる。
〈なにもしないままに、7月が終わろうとしている……〉
 ぬかるみにはまった自動車のように、タイヤが空まわりしている。
 店内には、綺麗なピアノ曲がながれていた。もの静かな旋律は、美しい哀しみをただよわせている。
「マスター、この曲は何?」
 マスターは包丁の手をとめ、顔をあげた。
「ショパンの《ノクターン第一番変ロ短調》」
 美樹の横顔が目にうかぶ。ほのかに沈んだ表情をしている。
〈どうしたの?〉
 裕介は胸のなかで、問いかけていた。
 その夜、裕介はマンションのすぐちかくに、パトカーのサイレンを聞いた――。



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