欠けた季節 12  

     


    12

 あいかわらず、細木はダークグレー、というよりネズミ色の背広だった。
 前回とおなじ、地下街の喫茶店に呼びだされていた。うす暗く、やはり客はすくない。
 裕介はことわったのだが、細木は「せわになりっぱなしだから」と、紙ぶくろをおしつけてきた。
「気にいるかどうかはわからないんだが」
 なかを開けると、Tシャツだった。専門店で買ったのだろう、デザインは今年の流行にそっていた。
「若いっていうのは、いいね。ジーパンやTシャツで、そんなにも輝けるんだから」
 ほんとうにうらやましそうに言った。
 裕介はどうこたえればいいのか、わからなかった。
「じつは、もう1つだけ頼みをきいてほしいんだ」
 細木は背広の内ポケットから茶色の封筒をとりだす。
「ここに20万円ある」
「―――?」
「やっと、つくれたんだ。美樹への、7月と8月ぶんだ」
 きょうから8月だ。7月はいちども美樹とデイトしていないはずなのに、2カ月ぶんを払うつもりらしい。
「これを美樹にわたしてほしい」
「僕が、ですか?」
 細木はうなずく。
「銀行の口座かなにかに振りこまないんですか?」
「たしかに、以前は銀行に振りこんでいた。私の手から直接お金をわたすのも、気がひける。美樹とは金などからんでいない、あくまで対等の関係とおもってつきあいたいから」
〈だったら今度も、そうすればいいじゃないか。わざわざ僕にあずけなくても〉
 細木のさしだすお金に、どこか嫌悪をかんじて、いらだちが走った。
「ところが」
 細木はいちど考えこむようにうつむき、ふたたび顔をあげて、
「この20万は、足あとを消しておきたい」
 と、ことばに力をこめた。
「足あと?」
「つまり、銀行をとおしたりして、証拠をのこしたくないんだ。私からどこへお金が移ったのか、わからないようにしておきたい」
「どうしてですか?」
 不安がわいてきて、理由を待った。
「べつに、へんな金じゃない」
 細木は裕介から目をそらす。
「ただ、契約上の規則の問題とかで、いろいろとあるんだよ」
 裕介と目をあわそうとしない。それ以上は言いたくないようだ。
 細木は封筒を手に、哀願の目を裕介にむけてきた。
 こんどは、裕介がうつむき、考えこんだ。
 ふたりのあいだに沈黙がおかれた。
 そして、裕介が口をひらく。
「わかりました」
 内心では、すぐに妥協してしまう自ぶんの弱さがいやだったが……。
「僕なんかにはわからない、むずかしいこともあるんでしょうから」
 内心のわだかまりを押しつぶした。
「そうなんだよ」
 細木はほっとしたように、顔をほころばせる。
「生きていると、いろんなことがあるんだよ」
 裕介が封筒を受けとると、細木は安心したのか、しぜんにことばが流れだす。
「6月の末だった。美樹とあるいていたときに、私の上司と道でハチ合わせしてしまってね」
 よわってしまったという表情のしたに、得意げなほほえみがのぞいた。
「私が美樹のような若い美女をつれているので、上司は目をまるくしていた」
〈美樹と肩をならべて街をあるけたら、どんなにすてきだろう〉
 細木がうらやましかった。
 裕介の想いには気づかず、細木はしゃべりつづける。
「とっさに、親戚の娘だと言ったんだ。むこうは『ああ、そう』となにげなく応じたが、見ぬいたようだ。彼の目が、私と美樹のあいだを往復していたよ」
 聞きたくなかった――。細木に人として悪い感情はないのだが、美樹を“愛人”にしている事実が裕介に重くのしかかる。思いだしたくない、考えたくない事実を目のまえに突きつけられる。
「その上司は私より10歳も年下なんだが、すごいやり手なんだ。36歳にして、6カ所の支部長を経験している。しかもどの支部に配置されても、数カ月もすれば必ず支部契約高を全国のトップ・ランキングにつらねさせる。本社で役職をえるのは、時間の問題といわれている。ハンサムだし、若い女性にもとりかこまれている。仕事にしてもなににしても、私など足もとにもおよばない」
 細木の表情がくもる。
「なのに、私が彼もおどろくような美人をつれてあるいている。彼にすれば、おもしろくなかったようだ」
「どうして、おもしろくないんですか? その支部長は若い女性にも人気があるんでしょう?」
「エリートというのは、なんでも独りじめしていないと、気がすまない人種なんだ。地位も、名誉も、金も、女も、なにもかもすべて自分の手に」
 その上司がモノのように美樹を見ていたような気がして、裕介は感情が荒だった。
「それ以来、仕事のうえで彼からすこし辛くあたられてね」
 裕介は眉をひそめる。
「いや、そんなにひどいほどじゃない。いびられるのは、なれてるからね」
 細木のつくり笑顔はひきつっていた。



   欠けた季節 12