13
裕介は、レストラン・バーのテーブルで美樹を待っていた。20人以上すわれそうな長いカウンターと、4人がけのテーブルがじゅうぶんな間隔をとって10台以上。シャンデリアが琥珀色に空間をてらし、おちついた雰囲気をただよわせている。
裕介はジーンズにTシャツで店内に足をふみいれて、場ちがいなかっこうだと追いかえされるのではないかと気後れした。さいわい「いらっしゃいませ」の応対がかえってきた。
昨夜、細木からあずかった20万円にいくぶん気を重くしていると、11時をすぎて電話がなった。細木の念をおす電話だとおもった。その夜、1カ月ぶりに美樹と会うといっていたから。
受話器をとり、ながれだす声に息が止まった。美樹だった。細木から裕介の電話番号をきいたらしい。
『細木さんから、裕介くんにあずけたってうかがったの。申しわけないけど、大学には持ってきてほしくないの』
そういって、レストラン・バーの店名をあげた。
『裕介くんさえよかったら、そのお店で会ってくださらない?』
『べつにかまわないよ』
なにげなくこたえたが、胸のなかは嬉しさで弾んでいた。
〈大学の外で会えるなんて!〉
お金をわたす役さえなかったらと、封筒をいまいましくおもった。
店内の客は、若者ばかりだ。みな流行のファッションに身をまとっている。
裕介は出かける前、細木からもらった新品のTシャツをいちど着たのだが、落ち着かなくて、すぐに違うシャツに着替えていた。
約束の6時に遅れないように、20分まえについていた。ひとりテーブルで待つ時間は、長い。タバコを吸わない裕介は、なにもすることがなく、あたりを見まわしたり、意味もなく自ぶんの手を見つめるだけだった。
テーブルはまだ3台しか客でうまっていない。カウンターにならぶ木彫りもようの肘かけ椅子は、すべて空席だった。
美樹が早くこないかと、入口を気にしていた。6時に待ちあわせる人が多いらしく、5分まえぐらいになると急に客足が増えてきた。
裕介は身の置きどころにこまる。テーブルのうえに手をおいたり、肘をついたり、腕をくんだり、おなじポーズは1分とつづかない。祈るような気もちで待つ。早く時がすすんで、6時をまわってほしい。
〈あの時計は正確なのかな?〉
カウンターのおくの壁にかけられた時計が、6時をさしている。だが、裕介の時計はまだ5時58分。
それから1分後、美樹があらわれた――。
美樹は黒い細身のスカートに、淡いパープルのブラウスを着ていた。高いヒールをしぜんに履きこなし、ウエーブのかかった髪を軽くはずませ、優美な足どりでちかよってくる。
〈綺麗だ――〉
おちついた大人のムードがただよっている。メイクした目もとが魅惑的で、薄い口紅も上品に映えていた。
キャンパスで会ったときとはまるで違う。街にでた美樹は、麗しい魅力をふりまいている。
みとれていると、彼女がほほえむ。
「ごめんなさい。お待たせしたみたいね」
「ううん」
自ぶんがずっと美樹をみつめていたのに気づき、視線をそらす。
裕介はうまい褒めことばをしらなかった。
〈ちゃんとしたかっこうをしてくればよかった……〉
よごれをはらうように、両手を服にすべらせる。
美樹の声が優しく裕介をつつむ。
「とても似合っているわ」
抱きしめられたような嬉しさは、瞬時に、いらだちに変わった。
『若いっていうのはいいね。ジーパンとTシャツでそんなにも輝けるんだから』
細木の声と顔が、美樹とだぶる。
裕介は頭から細木を振り払った。
手わたさねばならない封筒をおもいだす。早くかたづけたかった。ジーンズの前ポケットから、2つ折りにした封筒をとりだす。つよい折りめがついていた。封筒を反対がわに折りまげて、平らにもどす。まっすぐにはならなかったが、形はととのった。
「これ」といって、美樹にさしだす。
彼女はまつげをふせ、視線を封筒にとめる。無言で手を伸ばす。裕介が指をほどくと、封筒は白く薄い手にわたった。
美樹は黙ってハンドバッグにしまった。
ウエーヴのかかった髪をゆらし、顔をあげると、
「まいにち図書館に缶づめだから、気がめいってしまうの」
なにもなかったかのように言う。
「気ぶん転換がしたくて。むりに相手をさせてしまって、ごめんなさいね」
「僕も暇だから」
言ってしまってから、もっと気のきいたセリフはなかったかと後悔した。
〈美樹さんは、僕みたいに暇じゃない〉
だけど、自ぶんも暇だからここにいるわけじゃない。もし時間がなかったとしても、彼女と会えるなら、すべてをほうりだしてでも駆けつける。
その想いをつたえる言葉と、勇気はでてこない……。
裕介の想いはかけらもとどいていない。美樹は『気ぶん転換がしたい』だけだった。
裕介は気づいた。
〈気ぶん転換がしたいといったけど、きのうの夜は細木さんと会っているんだ〉
おそらく今夜のように大人っぽいメイクと、もっとセクシーなドレスに身をつつんで。
〈きのうの夜の電話は、細木さんと会っている途中だったのかもしれない。もしかしたら……〉
美樹が白い裸身にバスタオルをまき、シーツに寝そべっている。濡れた髪を頬にたらし、受話器をもち……。
たえられなくなって、襲ってくるイメージをかき消す。
「どうしたの?」
美樹がのぞきこんでいた。アイラインが目についた。
〈デイトのあいだに電話してきたんだ。そうに決まっている〉
裕介は、自ぶんの存在が無視されているような屈辱をおぼえる。
〈美樹と細木さんの2人の世界から見ると、僕なんか、どこかの知らない店員と同じなんだ〉
美樹の目を射抜くように見つめていた。
「きのうは、楽しかった?」
自ぶんの言いかたが卑屈になっているのがわかる。
彼女は表情をおさえているが、瞳には弱い光が哀しそうにまたたている。
裕介は自ぶんを責めた。
〈言ってはいけないことだった、絶対に〉
テーブルを挟んで、2人を沈黙がへだてる。
長い、裕介にとっては時間が止まってしまったような10数秒がよどみ、ボーイの「いらっしゃいませ」のひとことで救われた。
革表紙のメニューが、裕介と美樹のまえに1冊ずつおかれた。気まずさから逃れるように、裕介はメニューをひらく。パタリパタリと大型のページをめくる。
美樹は明るい声をあげる。
「裕介くんは何が好きなの?」
「エッ?」
とっさに返事ができない。メニューに目をながしているだけで、料理など選んでいなかった。
「お魚とお肉なら、どちらが好き?」
「どっちでもいいけど……」
美樹は白い手をのばしてくる。裕介は一瞬、息がとまる。彼女は「ちょっと失礼」と裕介のメニューをめくる。
「これなんか、どうかしら?」
ほそい指さきで魚料理をしめした。
「ほかにもいろいろあるから、好きなものを選んでね」
彼女の指がはなれていく。
裕介は美樹を追いかけるように言う。
「それでいいよ。おいしそうだし」
「そうしましょうか」
美樹はボーイにむかって右手をあげた。
彼女がオーダーし、1枚のカードをボーイにしめした。お酒のボトル・カードらしい。
「リッチなお友だちから借りたの。もうすぐキープが切れてしまうんですって」
「この店には、よく来るの?」
訊いてしまってから、まずい質問だと悔やんだ。
「月に1度あるかないかだけど、ゼミのメンバーでね」
〈よかった、細木さんの名まえがでなくて〉
また気まずくなるところだった。
まいにち図書館に缶づめで気がめいる、という美樹のことばをおもいだす。
「勉強のほうは、はかどっているの?」
裕介はようやく、いつもにちかい調子で言葉をだせた。
彼女はすこし上目づかいに「うーん」と考えこむ。
「はかどっているといえば、はかどっているし」
裕介に顔をむけ、笑みをつくる。
「でも、いくら勉強しても不安は消えないわ。わたしの今の力で届くのだろうかって」
〈どういたわってあげればいいのだろう?〉
僕のような者がなぐさめても、彼女の不安はやわらげられないだろう。かえって、他人の気軽さをしらしめるだけかもしれない。
「ゴメン。きょうは気ぶん転換だったのに、受験のこと訊いてしまって」
裕介は話題をかえた。
映画や音楽、本の話。友人の話。そして自分たちの中学・高校時代や子どものころ。さまざまな方向におしゃべりが弾んだ。
そして美樹は、去年の1月に亡くなった母の話をした。
「わたしがまだ小学3年生のころ、母が、鬼のように怒ったことがあったの。はじまりは親子のたあいもない口ゲンカだったのに、わたしが『そんなもの、見なくてもわかってる』って言ってしまったの。母は『人間は神さまじゃない。見なくてもわかるなんて、今度言ったら許さない』って。母のあんなに怖い顔を見たのは、あの一度だけだった」
美樹は微笑んでいる。だけど、どこか哀しそうだ。
「きっと母は、わたしの想像もつかない苦労を背負ってきたんだと思うの」
もう、それを訊くことはできないけど……。裕介は胸のなかでことばを続けた。
美樹はすぐに笑顔にもどり、話題を変えた。
〈試験に受かって、U共和国へ行ってほしい。行かせてあげたい〉
むかしからの友人のように、2人はうちとけていた。
6時から9時まで、裕介は夢ごこちの時をすごした――。
裕介はすこしでも長くいっしょにいたかった。別れる時を一秒でものばしたい。
店を出てから「送っていくよ」と申しでたが、
「まだ早いから、心配いらないわ」と、やんわり断られる。
しつこくすると美樹に嫌われると思い、すぐに引き下がった。
「じゃ、また」
それ以上、うまい言葉はしらなかった。
「きょうはありがとう。たのしかったわ」
美樹の声はここちよい音楽のようにひびく。
「さようなら、おやすみなさい」
裕介が「さよなら」をかえすと、美樹はほほ笑みながら背を向けた。
去っていく彼女はいちど振りかえり、手をふった。
裕介も手をふりかえした。
裕介は、遠ざかるライトブラウンの髪を見つめていた。見えなくなるまで、ずっと見つめていた――。
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