欠けた季節 14  

     


     14

《ニュー・アポロ》の事件から、1週間がすぎた。
《ニュー・アポロ》のオーナーは左頬骨が陥没し、肋骨5本に胸骨も骨折していた。折れた骨が、あちこちの肉と皮膚を突き破っていた。手術をし、いまは病院のベッド生活で、全治3カ月という。
 いっぽう、相手の巨人は睾丸が2つとも砕け、ダメージは骨盤・内臓にまでおよび、一命はとりとめたが、男としての機能は永久に失われた。全治6カ月以上という、退院の見込みがつかない重傷だ。さまざまな後遺症も心配されるらしい。
《ガーデン・ハウス》の客に話をきいて、裕介は身慄いした。
「店って、そんなにまでして守らなきゃいけないのかな?」
 裕介は暴力がきらいだし、にがてだ。腕力に自信もないし、なぐりあいのケンカなど1度もしたことがない。
「マスターがあのオーナーだったら、闘う?」
「そうだねェ」
 マスターは食パンに包丁をいれて三角形にしたあと、顔をあげた。
「やっぱり、店は命だからね」
「スーパー・ヘビーの巨人が相手で、殺されるかもしれないんだよ」
「ケンカには自信がないけど、これでも振りまわすかな」
 包丁の先を上へむけ、クルクルとまわした。
「マスターの包丁さばきは超一流だからな」
 ひとりの客がいうと、べつの客が口をはさむ。
「料理の包丁さばきとドスの使いかたをいっしょにするな。物騒で、この店に出入りできん」
 笑いがおこった。
『これでも振りまわすかな』 
 もちろんマスターは冗談でいったが、いざとなったらわからないのではと裕介は思った。ふだんは優しく目じりがたれているマスターも、芯はつよい人だ。以前この店で裕介にからんできた男を、マスターがしかりつけたのを思いだす。裕介は、一歩も引かない強さをマスターに感じた。うわっつらではない、こころの底からにじみだすような強さを。
 昼休みが終わり、それぞれの客が会社や仕事場へもどっていった。
 裕介ひとりになった。せまい店内でも、1人だとゆったりした気ぶんになれる。ざわついた話し声が消え、エアコンから低い音がもれる。
 マスターは皿を洗っていた。
「ねえ、マスター。ちょっと訊いていいかな?」
「私に答えられることなら、いつでもどうぞ」
 愛想のよい返事をかえしてくれる。
「このまえ、僕に突っかかってきた男のひとがいたよね」
「ああ、あのお客さん」
 手をふきながら、てれくさそうにいう。
「あれは言いすぎてしまったなぁ」
「僕のために、嫌な気ぶんにさせちゃったね」
 マスターは口もとにかすかな笑みをうかべながら、首を左右にゆらす。
「あんなにきつく叱ったのは、やっぱりマスターのだいじな店のなかだったから?」
 マスターは手をとめ、裕介に目をむける。
「自分自身をたしなめていたんだろうね」
 意味がわからない。マスターに顔をむけたまま、話のつづきを待つ。
「私は気づかずに、あのお客にむかしの自分を見ていたんだ。自信のなさをカラ威張りでとりつくろっていた、若いころの私を」
「……自信のなさをカラ威張りで? マスターが?」
 マスターはうなずく。
「若いころの私は、とんでもない道楽むすこだったんだよ」
 おもえば、マスターに関しては独身だというぐらいしかしらない。いつも裕介が話をきいてもらってばかりいたからだ。
 裕介がしつこくねだると、マスターはどこかで聞いた他人の過去をかたるように、たんたんと話してくれた。
「父親は貿易会社を一代できずき、80名の社員をかかえていた。私はひとり息子だったが、親のあとを継ぐのは拒んだ。10代のころの私は、自分の人生はもっと可能性にみちていると信じこんでいた。たかが80人ていどの従業員のお山の大将なんて、まっぴらごめんだと思っていた。父親の偉大さも、近すぎると見えないものだ。甘やかされて育ったから、うぬぼれもつよかった」
 高校を卒業すると、親の反対をおしきって東京の有名私大へ入学した。断固として会社をつがない意思表示のつもりで、文学部を選んだ。親は、家をでていく息子を見おくった。それでも、ひとり息子のために、毎月多額の仕おくりをしてきた。
「おかげで、お金と時間にはぜいたくさせてもらった。まいにちを気ままに暮らしていたよ」
 書をよみ、酒をのみ、友とかたらい、女学生と恋愛する。あるときは水商売の女をめぐってチンピラと乱闘になる。バクチに凝り、ひと晩で1カ月ぶんの仕おくりをすべてとられる。授業料にあてるはずのお金で、高級娼婦を買ったこともある。
 そして『カネタリナイ』と電報をうつ。親はお金をおくりつづけた。卒業したら、気がかわって家業をついでくれるだろうと期待して。
「最近の若いものは、なんていうけども、むかしも、私のような親のすねかじりはけっこういたよ」
 おなじような学生と徒党をくんで、遊びまわった。
「自分の可能性をひろげるためには、机上の学問だけでなくいろいろな経験をしなければならない。そうへ理屈をこねて、授業もさぼってふらふらしていたものだから、卒業するのに9年かかった。いまの大学なら、とちゅうで除籍処分だろうね」
 なんとか卒業できることになり、今度は身をおちつける場所をさがす必要にせまられた。父の会社を継ぐ気はない。大学は卒業したのだから、理由もなく仕おくりを受けつづけることもできそうにない。
 ひとまず就職試験でもうけておこうと思った。とりあえず、1部上場企業の《三輝商事》を受験してみたら、なんと採用された。大学卒業まで9年間もかかったくせに自信に満ちあふれ、面接で偉そうなことばかり言っている若ぞうに、人事担当者が興味をしめしたのだ。
 学生時代はまいにちの時間がありあまっていたので、手あたりしだいに本をよみあさっていた。自由すぎると、24時間のつかいみち を考えるのがめんどうになってくる。空いた時間は、どんどん読書で埋めていった。遊びまわっていても、年に300冊ぐらいをひもとく時間はとれた。もともと好奇心がつよいので、幼いころから本になじんではいた。大学の9年間だけでも、読んだ本は3000冊以上になるだろう。20代の若者にしては膨大な量の読書をおえていて、ひけらかすには充分な量の知識を記憶していた。
 くわえて、金と時間の不自由なく自由奔放にあちこちをのぞきまわっていた。面接の担当者は、これは大物だと勘ちがいしたようだ。
「ひとりよがりの自信もあまりに強烈だと、自分だけでなく他人の目もくらますようだね」
 マスターは他人ごとのように言った。
 しかし苦労をしらないボンボン育ちに、会社づとめはむずかしかった。入社後まず苦痛だったのは、毎朝きまった時刻での起床だった。それまで9年間は、寝たいときに横になり、気ぶんがむいたらフラッと外へ出かけるという気ままな生活をあじわっていた。いきなり毎朝きまった時刻に起きろといわれても、9年間も不規則がなじんだ体のリズムは、そう簡単にはかわらない。ギリギリまでふとんのなかにいて、顔もあらわず、朝食もとらずにあわてて部屋を飛びだす。いつも遅刻はかろうじてまぬがれるが、脳はまだ眠っていてぼーっとしている。規則的な生活は、かえって頭脳をめざめさせてくれない。いつも駆けこみ出勤で、しかも注意力散漫でよくミスをする。当然、上司に怒鳴られる。自分が悪いくせに、どうしてこの俺がバカどもにへいこらしなければいけないんだと思いだす。会社にいくのが憂鬱になり、朝おきるのがよけいに嫌になってくる。悪循環だ。
 入社して2週間がすぎ、15日めに最初の遅刻をした。
「前の晩からイライラしていて、一睡もしないで朝をむかえたんだ。ふとんのなかからぼんやりと目ざまし時計の針がすすむのをながめていた。時刻は過ぎていく。もう、ふとんから出ないと間にあわない。でも、起きるのがおっくうだった。そのときは頭のなかでいろいろ理由をこじつけようとした。体調をくずしているのではないか、とか。いま考えると、ただのわがままだったんだ」
 いまからどんなに焦っても、遅刻にかわりはない。そう思うと、眠気がやってきた。どうにでもなれと思い、睡魔にしたがった。
 午前中に何度か電話がなったが、受話器はとらなかった。うっとうしい上司の怒鳴り声をどうせ聞かされるなら、その前にぐっすりと眠っておこうと腹をきめた。
 目ざめたら、太陽が真上にのぼっていた。
 のんびりとヒゲをそり、ゆっくりと食事をしながら言いわけを考える。迷ったあげく、じゃまくさくなった。正面きって言ってやろうと決意した。
 会社についたときには、2時半をまわっていた。
「まさしく高慢だったんだね。能力のある自分なら、許されるとおもっていた。能力があるというのも、自分を過大評価した思いこみにすぎなかったし」
 遅刻の理由を問いただされ、『朝、起きたくなかったからだ』とこたえた。
 同僚がおどろき、先輩社員があきれ、上司がカンカンに怒ったのもむりはない。ほかの社員たちが注目するなかで、叱責怒号を浴びた。
『辞めさせてもらう!』
 上司の怒声をさえぎるように、怒鳴りかえした。
 自分よりはるかに能力の劣る人間の下で働いていられるか!真剣におもった。自分はもっとハイ・レベルな仕事につくべきだ。自分の高い才能をみとめてくれるよい職場に変わろう。ただの自我肥大だとは、そのときは気づかなかった。
『ああ、辞めてしまえ。おまえのようなやつなど必要ない!』
 言われると、にらみかえした。そして上司に背をむけ、大またで靴音を高くひびかせ、部屋を後にした。
 ああ、せいせいした。こんな会社、もっと早くにやめるべきだった。おもうと同時に、どこか淋しさがわきあがるのを無理におさえつけた。すこしはひき止めてくれるかと期待していたのだ。企業にとって、有能な人材は宝だ。なんの根拠もなく、自分は会社にとってかけがえのない存在だと思いこんでいた。
 その日の夜、そして次の日も、その次の日も、会社からの電話はなかった。
 1週間ほどして、うすい封筒が送られてきた。封をきると、2枚の紙がでてきた。退職てつづきの書類だった――。
 ……自分程度の人間なら、いくらでもスペアはあるのだ。
「そのときの落ちこみは、いまでも忘れないよ」
 愚かな自分を語るのはつらいだろうに、マスターの表情は、過去をなつかしむようにおだやかだ。
「広い世のなかでは自分の存在がいかにちっぽけか、28歳をまえにして初めてさとったんだ。世界の中心におれがいるのだという子どもじみた万能感、おれはつねに高い位置から見ていて正しいのだという独善的な世界観が、土台から崩れさった」
 しかし、とるにたらない自分をみとめたくはなかった。みとめれば、人生の敗北者になるとおもった。
 みかえしてやる! 自分には、才能という武器があるんだ! 
 プライドが高いので、柔軟性に欠ける。自ぶんの気もちまで偽り、ますます泥沼にしずんでいく。
 性格も人生観も、大きく歪んでいた。その歪みとは向きあわずに、逃げていた。
「マスター、つくり話じゃないの?」
 裕介は息がつまりそうになって、ひと息ついた。実際、半信半疑できいていた。いまの人格者のマスターからは、とうてい想像できない。
「気がめいるような話でもうしわけない。きょうは特別に一杯ごちそうするよ。アイス? ホット?」
「じゃあ、ホットで」
 長く座っていた裕介の体は、すこし冷えていた。
 マスターは、カウンターの端においてあるサイフォンのところへいった。裕介はカウンターのほぼ中央にすわっていた。
 サイフォンが音をたてはじめる。
「マスター、話をつづけてよ」
「つまらないストーリーだよ」
「結末をしらないと、気がおちつかないからね」
 マスターは両手を体のよこにひろげ、
「結末はここにあるとおりだよ」と笑み、
「では、ダイジェストで話そうか」
 と、店の扉にちらっと目をやった。
 裕介は壁の掛け時計をみた。1時47分。1時すぎから2時半ごろまでは、いつも客足がとだえる。
 マスターはコーヒー・カップを2つならべ、ていねいにそそいだ。
 マスターがもどってきて、カップをおいた。
 裕介は礼をいうと、シュガーもミルクもいれずに、そのままティー・スプーンでかきまぜた。ブラックで飲んでみたくなったのだ。
 ひと口ふくむと、裕介の舌にまろやかな苦みがしみこんでいく。
「思ったより、苦くないね」
「裕介も、コーヒーの味がわかるようになってくれたのかな」
 マスターの目がわらった。
 コーヒーのぬくもりが胃袋に流れおち、体ぜんたいにひろがっていく。エアコンで冷えた全身を内がわからあたためていく。
 気ぶんがおちついた。なかば催促するように、マスターの顔を見る。
 マスターはもういちどカップを口に運んだ後、話しだした。
「退職して、ほんとうは自信をなくしていた。自分の力が現実にはおもっていたほどではないと、わかってしまった。ところが、それを認める勇気がなかった」
 家に戻り、父親に『会社を継ぐ』と宣言した。
 もはやあきらめていたひとり息子が跡つぎを承諾したのだから、両親のよろこびは大きかった。仕事をおぼえさせるために、すぐに息子のポストを用意した。将来、社長になるためには、たくさんの勉強をしなければならない。経営術を身につけていく時間的余裕があり、しかも会社の全体像を細部にわたって把握できるポストだ。コーチ役の幹部社員もつけた。
「しかし、私は見ているだけでは満足しなかった」
 社長の息子という地位を利用して、あらゆる仕事に口をだした。書物から得た机上理論を信じてうたがわなかった。かってに企画をたて、仕事の段どりをかえた。さからう者は、次期社長の影と知識の武装でおさえこんだ。
 ――教養を身につけると、こころは受容[ひろ]くなる。だが、知識にとらわれると、こころは独善[せま]くなる。
 父親が注意しても聞かない。失敗をおぎなおうとして焦ってまたつまずき、じょじょに損失の規模が大きくなる。会社の業績にひびきだすのに、3カ月もかからなかった。
「なくした自信とつぶれたメンツをとりもどすべく、華々しい成功をなしとげて他人をみかえしてやりたい。躍起になる。が、力がたりないのだから、とうぜん失敗する。よりつよい挫折感と劣等感をおぎなうために、さらに大きなことをしようとする。自分の現実の力と目標との差はますますひろがり、強烈に打ちのめされる。そして、また――。転がりつづけて大きくなる“劣等感の雪ダルマ”だよ」
 3カ月をすぎると、父親との衝突がはじまった。
 半年後、父は息子をあきらめた。『思いどおりに仕事をしたいなら、金はだしてやるから外で好きなようにしろ』と、会社を追いだした。
「その後、私はいくつかの小さな会社をつくってはつぶし、親の財産をくいつぶしていった。結婚も2度したが、2度とも女房に逃げられた。40歳まえになって気がついたときには、自由にできる金はすっかり使いはたしていた。私には、なにものこっていなかった―」
 意外に、マスターの表情にかなしみはない。それどころか、すがすがしい笑みさえたたえている。
「40歳に手がとどこうとしたとき、やっとわかったんだ。自ぶんを正直に見つめるのは苦しい。だけど、ほんとうの自ぶんに気づかなければ、いつまでたってもこころの安らぎは得られない」
〈ほんとうの自ぶん? ……ほんとうの僕って、どういう人間なんだろう?〉
「裕介にからんできた男に、私自身の嫌な部分を重ねて見ていたんだね。だから、ついカーッとなってしまった」
 マスターとあの男とはちがう、裕介は思った。マスターがあのときに言ったとおり、あの男は自分のコンプレックスから逃げるために、他人にかかわろうとした。ひとを低くみることで、自信のなさをごまかす。だれかをけなしているあいだは、自分の欠点と向きあわなくてすむからだ。
 マスターは、ほんとうに相手をおもって男を叱ったのだと思う。
 マスターなら『大学なんか、やめてしまえ!』という言い方はしない。その違いが、あの男との差だとおもう。
〈でも、あの男のひとも、なにか悩んでいるのかもしれないなぁ〉
 裕介は、のこりのブラック・コーヒーをのみほした。



   欠けた季節 14