欠けた季節 15  

     


     15

 キーをつっこみ、ガチャガチャとまわす音。誰かが、部屋の鍵をあけようとしている。耳ざわりな音が裕介の眠りをさまたげるが、まだ眠くて目があかない。まぶたをおろしたまま、ベッドのなかから気配を感じていた。母がやって来たのだろう。ドアが開かれる音がした。
〈日曜日でもないのに、朝はやくから……〉
 ため息をついたが、すぐにおかしいと気づいた。足音がちがう。母よりもかるく、あつかましさも控えめだ。
 裕介は不安になり、目を開けた。カーテンごしの薄い陽ざしが部屋にひろがっている。横たわったまま顔をうごかし、玄関を見た。
 ――女性の、はだかの脚!
 目を見張り、飛び起きた! ベッドに両膝をたて、身をのりだしていた。裕介が急に起きあがったので、その女も驚き、立ちつくしていた。
 寝おきでかすんでいた目が、焦点をとりもどしていく。女は黄色いタンクトップにジーンズのショート・パンツをはき、陽焼けした脚をさらしている。小麦色の立ちすがたがスラリと伸びていて、健康的な肢体にバランスよくちいさな頭がのっていた。ショート・カットの茶髪が、顔の輪郭をまるくつつんでいる。その目鼻立ちを確認して裕介はほっと息をつく。
「なんだー」
「あのひとにキーを借りてきたの」
 白いサンダルを脱ぎ、部屋にあがってきた。手には、紺色の大きな紙バッグをさげている。
 裕介はカーテンを開けた。直接に差しこんでくる陽光は、勢いがちがった。全身を刺し、突きぬけていく眩しさに、目をほそめる。窓を開けると、部屋の湿気が外にながれだしていく。
 裕美と顔をあわせるのは、5月の連休に裕介が家にかえって以来で、3カ月ぶりだった。
 これまで裕美が裕介のアパートまで足を運んできたことはいちどもなかったので、妹とは気づかずに、はだかの脚をみてドギマギした自ぶんがおかしく、すこし照れくさかった。もちろん、裕美には言えない。
「暑いねェ、この部屋ァ」
 裕美は紙バッグを部屋のすみにおくと、片手でタンクトップの襟もとをひろげ、もういっぽうの手でパタパタと胸もとをあおぐ。
 裕介がエアコンのスイッチを入れると、裕美はエアコンの前に立ちはだかる。
 裕介はベッドに腰かけた。
「勉強のほうはどうだ?」
「まあ、どこかには入れるでしょう」
 大学受験をひかえているのに、他人ごとのように言った。すこしずつ何度も焼いたのだろう、きれいに陽やけした肌は受験生とはおもえない。
「入れるならどこでもいいってことは、ないだろう?」
「べつに無理して、入るのが難しい大学をねらう気はないわ」
〈僕が受験のときとは、ぜんぜん違うなぁ〉
 裕介は、のん気な裕美にあきれてしまう。
「かあさんも言ってたぞ、裕美は欲がなさすぎるって」
「学歴がほしいなんて、おもわないわ。好きでもないことで、しんどい目をするのは時間の浪費よ。たいせつなのは、長いながい受験勉強より、短いみじかい青春よ」
 裕美は言う。だけど、努力をしない性格ではない。自分が価値をおかないものには、だれが何といおうとエネルギーを向けない。しかし、自分が惚れこんだ対象には、その時期、ほかになにも目に入らないくらいに全力をそそぎこむ。
 裕美は中学時代、団体戦で全国ベスト8に入ったテニス部のレギュラーだった。高校生になってからは、『時間に縛られたくない』とクラブ活動には参加しなかった。しかし、好奇心のおもむくままに次々とチャレンジしていった。サーフィンはコンテストで女性の部で入賞し、バイクは男性に混じって競技会に出場した。ボクシングは女性の試合相手がいなくて、辞めた。演劇は大人のサークルに出入りするうちに、自分も舞台に立つようになった。自ぶんで脚本も書き、新人賞への応募もしているようだ。
 幼いころからきまじめで自ぶんの殻にとじこもることが多かった裕介とちがい、裕美は自立心も好奇心も強く、興味をもったらすぐに全力で走りだす性格だった。
『おとなしい裕介と、じっとしていない裕美と、男と女が逆だったらよかったのに』
 母はよく友人や親戚にこぼしていたが、裕介が小学生になると言わなくなった。裕美も成績はわるくなかったが、勉強ではつねに裕介のほうがよかったので、母はその点で満足していた。裕介にすれば、勉強まで裕美に負けていられないという気もちもあった。
「そんなかっこうで電車に乗ってきたのか?」
「暑いからね」
 タンクトップもショート・パンツもかなり小さめで、まるでビキニのようだ。
 しかし、女性らしくなってきた妹に、どう言って服装を注意すればいいのかわからない。
「なにか用事か?」
「そうよ。あのひとのことなの」
「『あのひと』って?」
 裕美はまき舌で、
「Great Mother !」
 おどけて発音し、愉快そうに口もとをゆるめる。
「知ってる? グレート・マザーって、ユング心理学の用語なのよ」
 裕介は首をよこに振る。
「あのね、あのひとに男ができたのよ」
 すぐには意味が理解できなかった。
 裕美はいたずらっぽい笑みをうかべて、裕介の反応を待っている。
「……なんだってェ!?」
 声が裏がえっていた。腰かけていたベッドからジャンプするように立ちあがり、裕美にむかって目を見ひらいていた。
 裕美は左右の手で口と腹をおさえ、笑いで体をふるわせる。座りこみ、両ひざをたおして身をよじると、こらえきれなくなって吹きだした。
 裕介は、腹をかかえる裕美をあぜんとながめる。
「ウソなのか?」
「ううん、ほんとうよ」
 裕美は息がととのわなくて、くるしそうにこたえる。
「兄きがあんまり驚くんで、おかしくて――」
 呼吸をおちつけると、裕介に顔をむけた。
「気がつかなかったの? 最近、あのひと綺麗になったでしょ?」
〈――男ができた? ――綺麗になった?〉
 まだパニックから抜けでていない。頭のなかの整理がつかない。立ちあがってしまった身のおきどころもなく、ただ突っ立っている。
「男って、しかたないなァ。まったく気づかないなんて」
 裕美はためいきをもらす。
「この3カ月ほど、兄キのところに来る回数が減っているでしょう?」
〈たしかに……〉
 予備校時代、母はすくなくとも週に3度はかならず来ていた。それは大学に入ってからもつづいていた。しかし、今年の春ごろから急に、やって来る間隔が長くなっていき、いまでは月に一度ぐらいになっていた。
「いつも、7時ごろになったら、兄キのアパートに行ってくるからって、店をバイトの店員さんにまかせて、最近は毎晩出ていくのよ」
「毎晩!?」
「いそいそ出かける姿をみれば、コレに――」
 裕美は親指をつきたてる。
「コレに会いにいくのは、目にみえてるわ」
「へんな手つきをするな!」
 裕介は前に踏みだし、立てた親指を払った。
 裕美は顔をしぶらせ、肩をすぼめる。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない」
 言われて、自ぶんのいらだちに気がつく。
 ベッドに腰を落とした。裕美と正面から目があう。とまどいを見ぬかれている気がして、裕介は座りなおし、体をよこに向けた。
「間違いじゃないのか?」
「よく、あいずの電話がかかるのよ。かならず2度なって切れるの。そのあと、あのひとが『ちょっとタバコを買いにいってくるわ』とかなんとか言って、そしらぬ顔して出ていくの。たぶん公衆電話をかけにいくのね。2〜3分で帰ってくるわ。そして時間をおいて、『裕介を見てくるわ』なんて言って、化粧しはじめるのよ」
 裕介のしらない母が目にうかんだ。うれしそうに鏡にむかい化粧をはじめる“女性”の顔だ。
「あんな子どもじみた方法で、あたしをだませてると思っているんだから。気づいていないふりをするのも疲れるわァ」
 まるで、友だちの話でもしているように言った。
「どうして、かあさんのことを『あのひと』だなんて呼ぶんだ?」
 体は横むきのまま首だけまわし、裕美の顔をみた。とがめる気もちもあった。ゴールデン・ウイークに家へかえったときにも、裕美と話していて、気にかかっていた。
 裕美が真顔になる。
「もう、母親を卒業させてあげてもいいと思って」
「卒業?」
 裕介の飲みこめない表情をうけて、裕美はつづける。
「夫がいなくて、2人の子もち。そんな生活を15年もつづけてきたのよ。20代のなかばから、女として熟れきった30代をまるまる通りすぎて。15年間もやすむまもなく働いて、母親をして、子どものために自分のなかの女を殺してきたのよ。1分1秒も妻や女にはなれずに。あたしだったら、ぜったい耐えられないわ」
 裕美のことばにリアリティを感じるまで、時間がかかった。
〈――そんなふうには、考えてもみなかった〉
 裕美が、裕介にはない目で母を見ているのに気づかされた。母への優しいおもいを抱いていたのも、はじめて知った。
「女だったら、ほんとうはいくつになっても恋していたいはずよ。どんな男でも、夫がいればまだましよ、あきらめもつくわ。だけど、あのひとのようなひとりぼっちのさびしさは、埋めようがないわ。自ぶんの子を溺愛することで、ごまかしてきたのよ。自分の、女としてのさびしさを」
 母の自ぶんたちへの執着――。
 20代から、女の部分を犠牲にしてきた母。埋められない孤独感は、子どもたちへの愛でまぎらわしていたかもしれない……。日に日に募るばかりの、苦しいリフレイン――。
 裕介も裕美も口を閉じていた。
 沈黙のなかで、兄妹の思いがおなじ方向へとむかっていく。
 裕介が口をひらく。
「相手は、ちゃんとした人なのか?」
 裕美はうなずく。
「あのひとに耐えているようなそぶりはないし、週に何度も会えるんだから、不倫じゃないとおもうの。とにかく、いま、とても幸せそうな顔してるわ、あのひと」
 裕介は初めて、こころの底から母を心配していた。母から守られるのではなく、自ぶんが母を見まもろうとしている。立場の逆転が、とてもふしぎな感じがした。
「いいんじゃないのかなぁ」
 裕美はとぼけた声をだす。
「あのひとに相手がいれば、兄きのマザコンもなおるだろうし」
「だれがマザコンだ」
 冗談だとわかってはいるが、いい気はしない。
「マザコンよォ」
 裕美は声を高める。
「あのひとがあんまりかわいがるから、いままで兄きは飼われたペットみたいになっていたのよ。飼い主がいないと、怖くて外にも出て いけない高級ペット」
「おまえ、口が過ぎるぞ!」
「ゴメン」
 裕美はペロッと舌をだした。
〈……マザコン……かもしれない〉
 考えてもみなかったが、言われると思いあたる。
 母が自ぶんから離れようとしなかったのは、自ぶん自身が母を必要としていたからかもしれない。いろいろと言いわけをしては、本気で母から自立しようとしていなかったのだ。
〈こころの底では、いつもかあさんを頼っていた。いつでも僕をむかえてくれる守り神を、いつもあてにしていたんだ……〉
 裕美は前髪をかきあげる。エアコンが効いて、ひたいの汗もひいていた。
「時期をみて、それとなく訊いてみるわ、相手のこと」
「わかったら、教えてくれ」
 裕介は、いまは母の好きなようにさせておこうと決めた。母の目はきびしい。へんな男とは交際しないだろう。
 窓のそとに目をやった。あいかわらず気温は高いが、よく見ると、夏はピークを越したようだ。1週間か10日ほど前の、肌に焼きつくようなきつい陽ざしをおもいだす。比べると、こころもち陽光はやわらかく、目にやさしくなっている。こうして、夏はゆっくりと坂を下りはじめているのだろうか。そしてある瞬間から急に加速を増し、いっきに坂道をころがり落ちる。気づいたときには終幕がおりていて、夏をかえりみる間もなく残暑も終わる。毎年、裕介は夏をとらえきれずに、秋をむかえているような気がする。
〈ことしも夏が終わってしまう。どうにかしなければ……〉
 なにかをしなければ、と焦る。
「じゃァ、あのひとのことはそれでいいわね」
 裕美のことばに、裕介は現実にひきもどされ、うなずいた。
「もしかあさんに何かあったら、すぐに電話してくれ」
「わかったわ」
「おまえも受験勉強でたいへんだろうけど」
「そうよ、たいへんなのよォ」
 おおげさに『たいへん』に力をこめるが、顔はすましている。
「そこで『兄きにわからないところを教えてもらうから』って、家をでてきたのよ」
「やる気になってるじゃないか、それじゃ、あの中は――」
 裕介は、裕美が部屋のすみに置いた大きな紙バッグを目でしめし、
「勉強道具なのか?」
 と、感心した。
〈この暑いなかを、重い参考書や問題集を運んでくるなんて〉
「ナイス・ボケ!」
 裕美は声を高くする。
「すてきな衣装替えよ!」
 言うと、立ちあがった。折りたたまれていた脚が、長く伸びあがった。
「今夜は受験勉強の特訓で、兄きのアパートに泊まることになってるの。そこんところ、ヨロシクね」
 陽やけした顔でいたずらっぽく片目をつぶり、紙バッグを手にとった。こういうときのウインクに、裕介はいつもためいきをつかされてきた。
「おまえなァー」
 あきれて、それ以上はことばがつづかない。
「じゃあネ」と、裕美はさっそうと部屋をでていく。サンダルをはき、ドアをでる。
 あわてて呼びとめた。
「なーにィ?」
 裕美は開けたドアのむこうから顔をだす。
 目をあわせたまま、気まずい空白ができる。まさかダイレクトに(男と泊まるんじゃないだろうな?)とは、訊けない……。
 裕美は胸をそらす。
「ああ、だいじょうぶよ。あのひとなら、うまく説きふせてきたから。なにも言ってこないはずよ。万一電話があったら、いまコンビニに買物にでかけた、とでも言っておいて。夜に一度、ここにTELするし。なんだったらケータイにかけて」
「それもあるし――」
〈……どう言えばいいんだろう?〉
「兄キ」
「うん?」
 裕美はおかしくてしかたないという表情でいう。
「たまには部屋に連れこみなよ。この部屋、ぜんぜん女の匂いがないんだから」
 白い歯をみせると、すばやく顔をひっこめドアを閉めた。
 裕介はひとり部屋にのこされた。
〈いつも、こうだ――。裕美には勝てないなぁ〉
 自由奔放にふるまい、それでいてちゃんと母を見まもっている。自分自身の将来だって、ほんとうは真剣に考えているはずだ。むかしからそうだった。見かけはあぶなっかしいが、芯はしっかりしている。派手な毎日をおくっているようで、結果的にはいつも着実にステップアップしている。あまり他人にみせないだけで、こころのなかではいろいろと深く考えているのだろう。
〈裕美はだいじょうぶだ。なさけないけど、いまは僕自身をどうにかしなきゃいけない、それが先だ〉
 折り返し点を過ぎた夏が、裕介をせかしていた。



   欠けた季節 15