欠けた季節 16  

     


     16

「知りあいの会社で、明日の1日だけなんだけど、どうしても人手がいるらしいんだ。むずかしい仕事ではないから、やってみないかい?」
 マスターにすすめられ、裕介はよろこんでひき受けた。
 明後日からお盆に入る。多くの会社が休みに入ってしまうので、アルバイトはよけいに見つけにくくなる。
〈いまやらないと、また機会を失う〉
 場所や時間、担当者の名まえなどをおしえてもらい、マスターに礼をいった。
 朝9時から夕方6時まで働いて6000円。アルバイト情報誌にのっていた他社の賃金にくらべると安いかもしれないが、それほど気にはならなかった。
〈いまは金額の問題じゃない〉
 無気力な毎日を変えるために、とにかく行動をおこす。日ごろから願っていたアルバイトの初体験に、おもいきって飛びこむだけだ。
 その夜、裕介はいつもより早く床についた。明日にそなえて充分な睡眠をとろうとしたのだが、かえって寝つけない。まるで大学入試前夜の受験生の緊張と、遠足前夜の小学生の興奮とがいっしょにやってきたようだ。眠けがこない苛だたしさに、何度も寝がえりをうつ。
 張りつめた意識がほどけたのは、目ざまし時計が午前4時をすぎてからだった。もう、どうにでもなれ、と眠りにつくのをあきらめかけたころ、いつのまにか夢のなかにさそわれていった……。
 翌朝、寝すごしてはいけないというおそれが、早めに目をさまさせ、結局3時間しか眠れなかった。
 しかし不思議に、頭はさえている。体にも力がみなぎっている。
 裕介は朝陽をすがすがしく浴びながら、バイトさきへ向かった。
     *
「服はそのままでいいけど、上着だけはひっかけといて」
 手わたされたのは、グレーの半袖の作業着。胸には会社のネーム《ワールド商事》。
《ワールド商事》は電気器具からカメラ・宝石・毛皮など幅ひろい範囲にわたって流通販売をおこなっている。歴史はあさいが、年々おおはばに業績をのばし、近年は世間の注目をあびだした。鳥絃市内だけでも、1等地にそびえたつ本社ビルのほかに、6つの支社と7つの広大な直営店舗をもつ。隣接府県への進出も着々とすすみ、販売網は全国にひろがりはじめている。
《ワールド商事》豊水支社は5階だてのビルで、おもったほど巨大なビルではなかった。1階はコンクリート・フロアの広いスペースになっている。なにも置いてなくて、すみに毛布の山が3つあるだけだった。そこで朝礼がおこなわれた。小学生の整列のように、ぎょうぎよく150人ぐらいが中央にあつまる。裕介もほかの5人のアルバイトとともに後にならんだ。整列した全員が作業着をきていた。
 かっぷくある男が胸を反りかえらし、皆のまえに立つ。高い位置からひとりひとりの顔をにらむように見まわし、激しいゲキをとばした。
「最近、暑さを理由にたるんでいる。気をひきしめ、がんばるように」という内容なのだが、責めるような荒々しい口調は、
〈怖いなぁ、まるでヤクザみたいだ……〉
 と、裕介をちぢみあがらせた。
 男のかけ声で、社訓の「忠勤忠義・大死一番・捨私共栄」につづいて、心訓の暗唱がはじまる。
『かっこうだけでも、口を大きくあけてマネをするように、な』
 朝礼まえに、マスターの知りあいに言われていた。その人はひどく忙しそうで、あいさつする裕介に、返したことばはその注意と『がんばって』だけだった。
「ひとォーつ。働かざる者、生きるべからず!」
 後につづいて、どなるような大声で合唱がはじまる。
「ふたァーつ」
 男は皆のまわりを歩きまわっている。犯人をさがす刑事のような目つきで、監視している。
「命を捨てても、仕事をとれ!」
 裕介は経験のない異様な緊張をおぼえる。
 いきなり、
「そこォーッ!」
 指さされた!
 心臓が止まりそうになる。一瞬にして血のけがひき、息ができない。
「何がおかしい?」
 男は裕介に向かって歩いてくる。そして、となりの青年のまえに立った。
〈となりだったのか――〉
 ほっと息をはきだす、音をたてないように。が、心臓のドラムは静まらない。
「いえ、なにも……」
 男の迫力に青年は怯え、かろうじて小さな声をかえしていた。裕介と同い年ぐらいだ。やはり大学生のアルバイトらしい。
 ほかの人間は皆だまって前を向いたままだ。振りかえる者はだれもいない。裕介も顔を正面にむけていたが、いやでも視界のすみに隣の光景が飛び込んでくる。
 青年の顔はまっ蒼になっていた。気をつけの姿勢で固まっている。
「どうしてわらった? 何がおかしい?」
 男は背をかがめ、上目づかいに青年の顔をのぞきこんだ。
「……すみません」
 かろうじて答えている。
 男は胸いっぱいに息を吸いこみ、となりの裕介が跳びあがるような大声で、
「帰れ! ぐうたらに用はない!」
 怒鳴った、まるで雷鳴が最後の審判をくだしたように。
 その場の空気をとりもどすすべは、ないように思われる。
 やはり、青年はすごすごと退きさがった。逃げるように男のまえから離れる。ひとりの社員がタイミングよくちかより、会社の上着を返すように言った。青年は上着を脱ぎ、社員が奪いとるように受けとった。
 そして、青年はノック・アウトされたボクサーのように、肩をおとして静かに出ていった。
「あれが負け犬だ。人生の敗北者になりたいやつは、あのバカのあとを追え」
 男は冷淡に吐きすて、おおまたで前へもどっていく。
〈はじめてのアルバイトだというのに、たいへんなところを紹介してくれたなァ、マスターは……〉
 最後までつとまるかどうか、こころ細くなる。
 社訓・心訓の合唱で喉をかれさせて、
「きょうも一日やるぞォー!」「オー!!」のかけ声で、朝礼も解散になった。
 アルバイトはひとり減り、全部で5人になった。仕事は軽トラックの助手だ。それぞれが社員の運転手とペアにされ、会社をでた。裕介が組む運転手は、37〜38歳くらいでよく陽焼けしていた。背はそれほど高くはないが、がっしりして横はばがある。一見して、バイタリティーにあふれている。
「出陣のまえに、コーヒー飲んでいくか」
〈えっ?〉
 意外だった。あの朝礼の調子では、1秒も息つくひまなく働かされると覚悟していた。
〈すぐにトラックに乗らなくて、いいのだろうか?〉
 疑問におもったが、口にはだせず、コーヒーに同意を表すつもりで「はァ」と返事した。
 5〜6分あるいて、会社から離れたちいさな喫茶店に入った。《ガーデン・ハウス》のような、常連の客しかこないような感じの店だ。
 店の奥までいき、すわる。2人用のテーブルは椅子のように小さい。きっとピラフの皿を2つのせたら、もうすきまはなくなるだろう。
 モーニング・サービスをたのむと、1枚の皿に2人ぶんのトーストとゆで卵が盛られてきた。
「1日は長い。スタートからあまり根をつめると、バテてしまうからな」
 運転手はトーストを口にほうりこんだ。トーストを口にしながら、クチャクチャ音をたててしゃべる。
「朝礼にでてびっくりしただろうが、あそこまできつい要求はしない。ただ、ちゃんとワシの言うとおりに働いてくれたらそれでいいから」
「はい」とうなずく裕介に、
 運転手は皿に残ったもう1枚のトーストをさししめし、
「早くたべろよ。そんなに長居はできないぞ」
 と、アイスコーヒーを腹にながしこむ。彼はもうトーストを腹におさめ、ゆで卵にとりかかっていた。
 裕介はあわててトーストとゆで卵を飲みこみ、コーヒーもあじわうひまもないままに喉をとおした。
 運転手が2人ぶんの勘定をはらった。店をでてから、裕介は自ぶんの代金をわたそうとした。
「『ごちそうさま』でいいんだ。バイトにきて金をつかってたら、なんにもならないだろう」
 裕介はそういうものかと思い、
「ごちそうさまでした」と頭をさげた。
 すぐ近くに公園がある。公園のよこに1台の軽トラックがあった。運転手はズボンのポケットからキーをとりだす。乗りこむとすぐにエンジンをかけ、裕介もあわてて助手席に飛びのった。
 車がスタートした。
〈初仕事だ〉
 裕介のこころが沸きたっていく。
〈僕にとったら、デビュー戦だ〉
 気をひきしめる。どれだけ身構えても足りないような気がして、おちつかない。
「大学生か?」
「はい」
「どこの大学だ?」
「《国際ソフィア大学》です」
「ほォー、いいところに行ってるじゃないか。ワシの息子もそれくらいの学校に入れたらいいんだがなァ」
 彼には3人の子どもがいて、いちばん上の長男が高校1年生だという。その下には、中学3年の長女と、中学1年の次女がいる。
「とてもじゃないが、娘2人には大学までいかせる金がない。恥ずかしくない嫁入りさせるだけで精いっぱいだ」
 フロント・ガラスにむかって大きな声で話している。
「長男は勉強ができるんだ。学問はあいつに期待している。ワシが大学へいってないからな、息子にだけはかよわせたいんだ」
 明るい声は、気合いがみなぎっている。
 15分ほど走ってブレーキが踏まれ、トラックが停まった。
「『ごめんください』とあいさつしてから『《ワールド商事》です』と言ってきてくれ。そのあいだに、倉庫のまえに車をつけるから」
 裕介は助手席から降りた。
 “質屋”という種類の店があるのは知っていたが、実際に見たのは初めてだった。ひとりで質屋ののれんをくぐり、玄関に入った。言いなれなくて変な感じがしたが、教えられたとおりに「ごめんください」と大声をだした。
 店のおくから「はい」と返事があり、金ぶちの眼鏡をかけた主人がでてきた。裕介を値踏みするような目つきで見ていたが、
「《ワールド商事》です」
 と言うと、主人は目つきを柔らかくくずして、
「ああ、ごくろうさん」
 と愛想わらいをうかべた。
 質ながれ(その意味は運転手にトラックのなかでおしえてもらった)の品物を《ワールド商事》が買いとる。商談のまとまった品物を質屋から集めてくるのがきょうの仕事だ。
 倉庫から、品物をつぎつぎとトラックに運びこむ。毛皮・宝石などの高級品から、ふとん・自転車・バッグ・ゴルフクラブ・将棋盤・マージャンパイなどまで、まるで小型の百貨店だ。ギターやドラム・セットもあり、腕時計はちいさな時計店をひらけるほどの数だ。
 電気器具はわりあいに少ない。電気製品に故障はつきものだ。一時的に動くようになった故障品で、金を借りようとたくらむ客もいるらしい。そういう客は、最初から借りた金をかえすつもりはなく、預けた品を流してしまう。ぽんこつの質ながれでは1円もとりかえせない。電気製品を担保にするときは、慎重になるらしい。また、とくにモデル・チェンジのペースが速い分野のものは、めったに質にはとらない。市場での値下がりが速いので、質屋で預かっているあいだに、予測できないほどどんどん値うちが下がってしまうそうだ。だから、たとえばパソコンや携帯電話などは、どんなに新品で高級品でもあまりあずからない。
「いつも《ワールド商事》さんには世話になります」
〈《ワールド商事》が販売する商品のなかには、これらの質ながれ品が含まれているんだな〉
 あちらこちらの質屋をのぞいて、裕介はだいたいの想像がついてきた。品物の良否を念入りにチュックし、質屋から定期的に安く買いとる。そして外観をみがいて新品として店頭にならべる。信じられないほど安い値段に、人々はとびつく。
〈だけど、質ながれの品物だけだと、商品はぜんぜん足りないはずだ〉
 トラックの荷台2トンぶんは1件の質屋ですぐにうまったが、鳥絃市内にある《ワールド商事》の7つの広大な店舗をうめようとしたら、2トン車100台でも、とうてい足りないはずだ。
 疑問を運転手にたずねた。
 彼は助手席の裕介に顔を振りむけ「バカ!」と浴びせると、すぐにまた前をむいた。
 裕介はどうして叱られたのかわからず、きょとんとしている。
「いいか、訊いていいことと悪いことがあるんだ。そんなことは心におもっても、口には出してならんことだ。ここだったらよかったものを、もし会社のなかでそんなことを訊いてみろ、一発でほうりだされるぞ」
 ハンドルをにぎる彼は、けわしい横顔をみせた。
「仕事というのは、働いている者の生活がかかっているんだ。ひとことが命とりになるときもある。1日かぎりのアルバイトに、会社の一番だいじなしくみをばらして、会社の得になるとおもうか?」
〈会社の得――〉
 そこまで深くかんがえてはいなかった。
「……すみません」
 自ぶんの甘さが、なさけない……。
「まあ、そんなに深刻にしょげることもない」
 運転手は一転して怒りのトーンを落とし、明るい声にかわる。
「卒業したら、うちの会社に入るか? 研究熱心は出世するぞ。いまは、勉強がちょっと早すぎたんだ」
 運転手は声をだしてわらった。
     *
 裕介は自ぶんの部屋で、6枚の1000円札を床にならべていた。6人の夏目漱石がヒゲをつらね、流し目をおくっている。
〈漱石ってそんなに悪い顔じゃないなァ〉
 夏目漱石は自分の醜い顔にコンプレックスをもっていた、と聞いたことがある。しかし1000円札で見てみると、どちらかといえば、ハンサムなほうではないだろうか?
 1000円札をまじまじと見つめる。ふだんは気にもしない図柄にも、いろいろな発見をする。〔大蔵省印刷局製造〕の文字が紙幣の中央からすこし右下にある。左がわ中央には〔1000円〕の大きな文字がすわり、その上下にそれぞれ〔日本銀行券〕〔日本銀行〕としつこく繰りかえされている。
 裏がえしてみた。何が描かれているかさえしらなかった。2羽のタンチョウヅルがいた。雄と雌だろうか、左右のタンチョウは微妙にちがい、一対で美しい絵柄をひろげている。〔NIPPON GINKO〕〔1000YEN〕の英字も新鮮に映える。裏面には、〔局〕という字しか読めない朱印をのぞけば、日本語がひとつもないのは意外だった。
 裕介は、欲しくてたまらなかったオモチャを手にいれた子どものようだった。宝物があるのを確かめるように、何度も手にとる。方向をかえて、ながめる。おなじ1000円札でも、自ぶんでかせいだものは光って見えた。ふだんの1000円の何倍も価値のある札におもえる。
〈そんなわけ、ないか〉
 浮かれている自ぶんをわらうが、こころの高ぶりはおさえられない。
 1日じゅう、『早くしろ』と何度もどなられ、『要領がわるい』とけなされどうしだった。
 昼休みまでは無我夢中で、あっという間に時間はすぎていった。
 しかし、午後は長かった。午前中は品物を落としてはいけないと過敏なほどに神経をつかっていた。そのぶん腕にもよけいな力が入っていたらしく、午後になってドッと筋肉に疲れがきた。握力がなくなって、腕がだるくなり、背なかの筋肉も張り、腰も痛くなってきた。足も上がらなくなり、午前中よりももっと気をくばらなければならなくなった。しかも午後からは、重い家具などが多かった。運転手と2人で運んでも、数をかさねるのはきつい。そのほかの品もあわせ、軽トラックで何度も本社と往復した。もともと体力もなんとか並という程度だ。息を切らし、品物を運ぶ。移動中で助手席にいるあいだは、ぐったり背もたれに身を倒し、しゃべれなくなった。
『ほれ、もうすこしや。ガンバレ、ガンバレ』
 元気な運転手に励まされるが、『はあ』と答えるのが精いっぱい。3時をすぎたころには、5分おきに腕時計をみるしまつだ。
〈1日に何度も引っ越しをしているみたいだ〉
 照りつける太陽がうらめしい。吹きだす汗でびしょ濡れになる。
〈もう、2度とここでは働きたくない……〉
 心のなかでなげきつづけ、やっと、6時になった。
 支社に帰ると、バイト代を茶封筒で手わたされた。なかをのぞいて、疲れもやわらぐ。
〈僕がかせいだお金だ!〉
 その足で《ガーデン・ハウス》にたち寄り、マスターに礼をいった。
「とちゅうで泣きたくなったけどね。いま、とってもうれしいんだ。生まれてはじめて、自ぶんで働いて手にしたお金だからね」
「裕介にはわるかったけど、きついのは知っててすすめたんだよ」
 マスターはすこしすまなそうに言う。
「じつは私も、7〜8年ほど前に、短期間だけどあそこで働いたことがあるんだ。だから1日だけでも、いろいろと考えさせられるいい体験になるとおもってね」
「でも、もし僕がとちゅうでネをあげて放りだしてでもいたら、紹介したマスターの顔はまるつぶれになるところだったね。あんなにきびしいんだったら、僕がつとまるかどうかわからなかったし」
「裕介なら、がんばると信じていたよ」
 マスターは目じりにしわをよせた。
「信じてもらえてうれしいよ」
 本心だった。どんなささいなことであれ、自ぶんを認めてくれる人がいるのは、大きな喜びだ。
『失礼します』と会社を去るとき、いっしょにまわった運転手が大声で『よくがんばったな、おつかれさん』と言ってくれた。
〈がんばってやり終えてよかった〉
 心からおもった。
 部屋でひとりになって思いかえすと、感動はいくらでもあった。
 初めてのバイト体験は、リアルに記憶がくりかえされる。新しい世界の経験に、興奮がともなう。今夜は寝つけそうにない。気ぶんの高まりをだれかれとなく話したかった。
〈一番つたえたいのは、美樹だ〉
 だが、キャンパスまで足をはこぶのは気がひけた。細木にたのまれた用事があるわけでもなく、会いにいく口実がない。
〈僕と美樹には、なんの関係もないんだ。僕は、細木さんと美樹のあいだを行き来するメッセンジャーにすぎない……〉
 あらためて、自ぶんと彼女をわけへだてる距離をかんじる。
〈そうだ、細木さんに話を聞いてもらおう〉
 美樹との関係をのぞけば、気にかかるものはない。
 裕介は初めて彼のアパートに電話をかけた。
 細木の部屋には電話がなく、他の部屋からの呼び出しになっていた。



   欠けた季節 16