欠けた季節 17  

     


     17

 喫茶店にあらわれた細木は、やつれていた。頬にかげりがあり、目も落ちこんでいる。
「ちょうどよかったよ。お盆休みもすることがなくてね」
「痩せたんじゃないですか?」
「夏バテしてしまってね」
 顔のしわが深くなっている。
〈お金の苦労がたまっているのかなぁ……〉
 盆で休んでいる喫茶店が多いので、いつもガラガラのこの店に、めずらしく客がよく入っていた。
「アルバイトをしたんだってね」
「ええ、そうなんです」
 身をのりだす。自ぶんの知りあいみんなに、いまの喜びをわかってほしい。
 裕介の話に、細木はうなずいたり、聞きなおしたり、意見をのべたりした。真剣に聞いてくれているのがわかる。
「この手のひらに、まだ感触をおぼえているんです。カサカサしたダンボール箱があったり、つるつるした塗装があったり、微妙に持ち方を変えないといけないんです。重いときには手のひらが汗ばみ、腕に力がはいってけいれんしそうになるんです」
「落とさなかった?」
「ええ、必死だったんで。『もし落としてこわしたら、バイト代で返すぐらいじゃすまないぞ』って脅かされて」
 細木はこもった笑いをかえす。
「裕介くんもやるじゃないか。私だったら、とちゅうで逃げだしてるよ」
「いえ、そんなことはありませんよ」
 裕介は真顔で否定した。
「働いてみてわかったんです。お金をもうけて生活していくのが、どんなに大変かって。まして細木さんのように、家族を――」
〈……話していいのかな?〉
 言いよどんだ。
「気にしなくていいよ」
 細木はにこやかな表情をくずしていない。
 裕介はつづけた。
「たった1日働いただけでもあれだけ辛かったのに、家族のために10年も20年もの長いあいだ、毎日まいにち働くのがどんなに大変か。考えると、僕にはできるだろうかって心配になります」
「裕介くんならだいじょうぶさ。こんな私にだって、できたんだよ。稼ぎがわるくて、最後には会社も亭主もクビになったけれどね」
 細木の表情から、しずかに笑みが消えた。
「私は一生懸命にやってきたつもりだ。しかし妻からすれば、力のない夫をえらんでしまい、自分の未来に早々と限界がみえてしまった。後悔になやまされる毎日だったんだろう。娘たちからすれば、強い父のもとに生まれなかった不遇に、他人をうらめしくおもっていただろう。私が前の会社をクビになったとき、妻も娘たちも私にサジを投げた」
「だけど、20年以上も、家族のために働いてきたんでしょう?」
 細木の前妻と娘たちの行動が信じられない。
「ずっと彼女たちの期待を裏切りつづけていたからね」
「でも、全力をつくしていたんだから――」
「私も甘えていたんだよ。前の会社をクビになったとき、家族は私をなぐさめ支えてくれるとあてにしていた。ふだんは私に文句をいいっぱなしの家族も、私の窮地には助けてくれるとたかをくくっていた」
「家族だったら、あたりまえじゃないんですか?」
 細木はくびを横にふった。
「たとえ家族といっても、自分以外の人間に期待してはいけない。妻も娘も、私にかけていた期待が大きすぎて不幸をなめつづけた。私だって、そうだ。家族に裕福な暮らしをいちどもさせてやれなかったくせに、自分の窮地には支えてくれるとつごうよく思っていた。それが離婚されて、ショックで気が抜けてしまうしまつだ。だれかに何かを望むのは、結局は相手も自分も苦しめることになってしまう」
「なんだか――」
 納得できないが、うまく言えない。
 細木はゆずらない。
「他人に期待せずに、自ぶんの問題は自ぶんで背負っていく覚悟ができれば、他人によけいな負担はかけないからね。自ぶんにも他人にもよけいな甘えをなくすことが、自立っていうやつじゃないのかな。自立しないと、他人とほんとうの関係は結べない」
 細木の言っていることが、正しいのか間違っているのか、いまの裕介にはわからない。
 細木はつづける。
「自ぶんが自立していれば、他人が自ぶんに何をしてくれたか、何をしてくれなかったかは、重要ではない。自ぶんの人生は自ぶんが責任をもつものなんだから」
 きょうの細木は、疲れた表情とは逆に、ゆるぎない自ぶんをみせつける。
「このまえ僕に、『若さがうらやましい』って言いましたね」
「ああ、いまでも思ってるよ。私も、ジーパンにTシャツできめてみたいよ」
 細木に笑顔がもどる。
「僕は年齢の重みのほうがずっとうらやましい。自信をもって生きていけるから。細木さんだって、だから美樹を――」
 いいかけて、口をつぐんだ。つい調子にのって、『美樹』と呼びすてにしてしまった。
 細木は聞こえなかったふりをして横をむき、裕介から視線をはずした。間をおき、ぽつりともらす。
「美樹はだいじょうぶかな……?」
「なにが、ですか?」
「以前に話した会社の上司が、美樹に会わせろとしつこいんだ」
 彼女と歩いているときに、道で上司とハチ合わせしたといっていた。
 細木は裕介を正面から見すえる。
「私は人生のすべてをかけて、美樹を愛している。どんなことがあっても、彼女を守ってみせる」
 険しい目が、うすぐらい照明のしたで光っている。
 細木のことばを、裕介は警告とうけとった。



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