欠けた季節 18  

     


     18

「マスターにも、細木さんが言うような“欠けた季節”があるんでしょう?」
 昼さがりの《ガーデン・ハウス》、客は裕介ひとりだった。
 盆を過ぎてじょじょに気温は下がりはじめ、きのうから最高気温は30度をわった。33、34度の日からくらべると、29度代の気温は体にやさしかった。《ガーデン・ハウス》のエアコンも、冷気を弱めてある。
「――欠けた季節、か」
 マスターはカウンターのなかで、グラスをふく手をとめる。
「過去に後悔がないといったら、嘘になる。だけど、どうしても今から埋めなければならない過去というのは、思いつかないね」
「後悔があるのに、欠けた季節はないの?」
 マスターはうなずく。
「季節は欠けてはいなかった。ただ、思いどおりにいかなかっただけさ。やりたいことがあって、やりたいことはやった。しかし、うまくいかなかった。できれば失敗や挫折はしたくなかったけど、いまから過去を変えられはしない。今を生きるほうに関心があるね」
 そういって、また順にグラスをみがきだす。
「といっても、その細木さんもつまりは現在を生きているんだろうね。自分がいま望む生活を求め、まもろうとしている。その意味では、私とおなじだね」
「じゃァ、マスターと細木さんのちがいってなに?」
「私はいまの生活をこなしていけば、過去の失敗や傷も気もちのなかでうすれていく。しかし細木さんの場合は、過去の傷どころか、成功だ失敗だといえる時代がなかったんだろう。自分自身のために、自分らしく生きようとする時代をいちども持たなかった。いつまでたっても、過去にぽっかりと穴が空いたままだ。それを埋めるには、自分の本心を正直に見つめて、望む生活にチャレンジしてみるしかなかったんだろうね」
 裕介はコップを手にとって水で喉をうるおわせ、考える時間をとった。
「マスターは若いころ、自分の力や可能性を信じて、チャレンジをつづけていたんだよね」
「若気のいたりでね」
 マスターはわらう。余裕のある笑みだ。
「もうチャレンジしないの? マスターのほんとうの力は、これだけじゃないでしょう。若いころとはちがう今のマスターなら、きっと大きなことができるはずだよ」
 裕介はことばに力をこめていた。
「私はいまの生活で満足している。華々しいステージをめざそうとはおもわないよ」
「どうして?」
 意気ごむ裕介とちがって、マスターは感情をみださない。
「この小さな店でコーヒーをたて、サンドイッチをつくり、客と語らう。毎日おなじ生活のくりかえしだけど、それもまた1つの生きかたなんだ。大きな夢を追いかけるばかりが、人生じゃない。人はさまざまだ。華がなく、地味な生活のくりかえしでも、まっとうすればそれもまた立派な一生だと思う」
〈夢を追いかけるばかりが、人生じゃない。――そのとおりだ〉
 裕介はことばをかえせずに、頭を垂れた。いつのまにか、ひとは大きな夢を追いもとめるべきだと思いこんでいた。
 マスターはグラスをみがく手を止め、
「もしかすると、いまの生活を守っていくことが、私にとっての“欠けた季節”を埋めていくことになるのかもしれないね」
 懐かしい思い出をかたるように、つぶやいた。
〈僕は、どんな日々をめざせばいいのだろう……?〉
 裕介は考えてみたが、簡単には答がでそうにない。その問いを、だいじに胸にしまった。
 マスターは裕介の前にさりげなく、水の入ったコップを置く。
「話は変わるけど、《ニュー・アポロ》のオーナーが、もう退院したらしいね」
 感心したように言う。
「うん、僕も見たよ」
 オーナーは全治3カ月のはずなのに、3週間たらずで病院を出てきていた。
《ニュー・アポロ》の事件後、すぐに警察の捜査がはじまった。警察は、オーナーが店に関して《金石組》に脅迫をうけていた事実はつかんでいる。だが、脅しのくわしい内容・背後関係まではとどいていない。いまのところは、傷害事件として捜査を進めている。
 病院のベッドから、オーナーが従業員に命令をだしていた。
『すこしの間だけ、おまえらが命がけで店をまもっておけ。俺がもどるまでしのげば大丈夫だ。すぐにもどるから安心しろ』
《ニュー・アポロ》は、事件の翌日も平常どおりに営業していた。さすがに客はひとりも入らなくなっていた。暴力団と一戦をまじえたパチンコ店など、怖くてだれも行けない。もし《金石組》が仕返しにきて、そこに居あわせたらと思うと、だれだって身慄いする。
 2日目、3日目と客はゼロ。それでも店員たちは毎日店を開けていた。よほどオーナーの力を信じているのだろう。オーナーさえ帰ってくれば、と耐えていたようだ。
 4日目に、店に突然10人ほどの客が入った。休憩をとりに交替で店を出てくる。ちかくの喫茶店から戻り、また座りつづける。その10人ほどはほとんど1日じゅう、パチンコ台にむかっていた。
 つぎの日は、人数が20名を越えていた。その翌日はさらに増えて30名ほど。おそらくはほとんどが店のサクラだろうが、日がたつにつれて、客の数は増していった。
 皆が恐れていた《金石組》とのトラブルも、再燃するけはいはなかった。警察のうごきに注意してか、《金石組》も姿をみせない。
 世間が事件を忘れるスピードも速かった。正確にいえば、事件からきた恐怖感が消えるのに、たいした日数は必要なかった。もともと、壮絶な格闘の恐怖をまのあたりにした人間はたった1人だ。ひとの口をへて、背びれ尾びれのついた話は、おちついて考えてみるとすこし大げさすぎる気もしてくる。店のサクラだとわかっていても、客が多く入っていれば、どこか安心できる。
「《ニュー・アポロ》に行ってきたぞ!」
 肝だめしでもするような、ふざけ気分の者もいた。
 ふしぎな魔法をみるように、10日たつと、いつもの数に近い客足にもどっていた。
 さらに1週間後、《ニュー・アポロ》のオーナーが退院してきた。陥没骨折の左頬は厚いガーゼでおおわれ、白い包帯が顔の輪郭をつつんでいた。
「僕がみたときは、右手で金属性のステッキをついていたよ。まだ、折れた肋骨が痛むんだろうね、大きな体をかがめるようにして、左右に揺れながら歩いていた」
 店のほうへあるいていくオーナーを裕介は遠くから見ていたのだが、痛みをこらえる苦しい呼吸が聞こえてきそうな気がした。
「あれだけの大ケガをして、よく動けるなァ」
〈自ぶんには、ぜったい無理だ……〉
 マスターは雑役を終えた。じゃまにならないようにカウンターのなかに立てかけてある折りたたみ椅子をとりだし、拡げて腰かけた。戸棚を振りかえり、セブン・スターのパッケージを手にとった。マスターは一服のむと、気もちよさそうに吐きだす。
 裕介が口をひらく。
「何があのオーナーをあそこまでさせるのかな?」
「ひとを動かすものは、それぞれに違うだろうね。言えるのは、対象に愛情がなければいけない」
「あのオーナーが、愛情あふれる人間だっていうの?」
 オーナーの野蛮さ・粗暴さはだれもが知っている事実だ。
「性格的に愛情深いかどうかという問題ではないんだ。情熱をおこさせる原点が、対象がどれだけ大切か、なんだよ。私の若いころのような、表面的な見栄やプライドからではだめだ。真剣に惚れこめば惚れこむほど、願いのかなう確率は高くなる。必ずかなうとは言いきれないけどね」
「思いこむ気もちが強ければ、手段をえらばない人間もでてくるよね」
 裕介は暗い表情になる。
 カウンターに、自ぶんの目が映っている。ふと気を抜いた瞬間、美樹の顔が浮かんだ。ちかごろの感情のみだれが、美樹につながっていく。苛だちが起きる原因は、彼女と細木の関係をかんがえまいと逃げている、自ぶんのこころの陰だった。
〈お金を目的や手段にする恋愛は、認めたくない――〉
 裕介は張りつめた表情で、コップの水を飲みほした。



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