欠けた季節 19  

     


     19

 店の扉の鐘がなり、ライト・グレーの小柄なスーツ姿が入ってきた。きちんとネクタイをしめている。以前、裕介に『大学なんか、やめてしまえ!』『おまえのためを思って言ってやってるんじゃないか』とからみ、マスターにたしなめられた男だ。
 裕介は、どう対応してよいのかわからなくて、マスターの顔をみる。
「いらっしゃい」
 マスターは男に笑顔をむけた。
「この前、お金をはらうのを忘れたんで」
 うつむきかげんに歩いてきて、カウンターのコーナーのまえで立ちどまる。奥の席の裕介をみると、わずかに目であいさつしてきた。裕介も頭を下げた。
〈何をしにきたんだろう?〉
『こんな店、2度と来てやるか!』――そういって飛びだしたのだ。わざわざやって来たのは、お金の支払いだけではないだろう。
「アイスティーだったから、250円かな」
 男はカウンターに硬貨をおいた。
 マスターは礼を言った。すこしも動揺していない。いつもと同じように代金をとり、レジスターにいれた。
 男は手もちぶさたに2、3度肩をしゃくりあげるように揺すると、
「じゃあ」
 と背をむけ、扉にむかってあるきだす。
 マスターが声をかける。
「新しいブレンドのアイスティーが入ったんだけど」
 男がふりむく。
 マスターは笑顔でつづける。
「よかったら、飲んでいきませんか」
「それなら、アイスティーをもらおうかな」
 男はもどってきて、カウンターのコーナーに腰かけた。奥の裕介を意識しているのがわかる。2人のあいだには、2つの空席がある。
 マスターはアイスティーをつくりはじめる。
 男はきょろきょろと店内を見まわしていた。裕介と目があったが、すぐに気まずそうに外した。
 裕介もどうしていいのかわからない。
〈また言いあらそいになるのは、いやだな〉
 しばらくは3人の男がそれぞれに無言で別方向をむいているた。
 マスターがアイスティーを男のまえに置く。
「いいスーツだね」
「安物なんだけど……持っているなかでは、一番ましなやつなんだ」
 ライト・グレーの襟をただした。
「……転職しようと、おもってね」
 ぽつりと言い、カウンターに視線をおとした。
 マスターが優しく訊く。
「行き先は決めたの?」
「いちおう。知人に印刷会社を紹介してもらってね。その面接に、これから行くんだけど……」
 不安そうに言葉じりをにごす。
〈それで、髪もきれいになでつけてあるんだ〉
 裕介は男のふんいきが変わったのは、服装のせいだけではないのに気づいた。毛先がとんがりバサバサにみだれていた髪が、おだやかにおちついている。
「決まるといいね」
 マスターの笑みに、男もうちとけ、表情をやわらげる。
「フリーのライターをやっていたんだけど、最近はかせげなくなってね。若いころは感性も時代の波に合っていた。原稿の仕事も多くて、体力にまかせて量もこなせたんだけど、ちかごろはもう、頭が歳をとってきてね。2歳はなれたら、世代が違うっていう時代だ。まあ言えば、5世代も6世代も年下のライターの感性には、表面で合わせるのが精いっぱいなんだ。原稿料のいい仕事はまわってこなくなるし、自分が落ちめだとわかると、安い原稿を大量にこなす気力や体力もなくなってね」
 男は、ためいきをついた。
 マスターがたずねる。
「いつごろから、書く仕事を?」
「もう、14〜15年になるかな。20歳のときにマスコミ・スクールの夜間コースに入って、2年間勉強した。卒業した後、スクールの紹介で1本の仕事をもらい、じょじょに拡げていったんだが……」
 男はストローの紙ぶくろの端をちぎり、アイスティーのグラスにさしこむ。
「家の経済的事情で大学に行けなかったのが、ずっとコンプレックスになっててね。なにクソッとその反動で、一流のノンフィクション・ライターめざしてがんばってきたつもりなんだけど」
 ストローに口をよせ、アイスティーで舌をしめらせる。そして、自分をあざけるように、
「『つもり』じゃァ、なにもやってないのと、かわらないよなぁ」
 と首をひねり、ストローでグラスのなかをかきまぜた。裕介に顔をむけると、
「裕介くん、だったな」
 と愛想をこめて言った。
「ええ、そうです」
 名まえを知っていたのは意外だった。
「どんなことがあっても、大学をやめるなよ」
 男は裕介の目を見つめている。
「たとえつまらなくても、なにも起こらなくても、親が通わせてくれるなら甘えておけばいい。それがきっと将来、なにかの形で財産になって返ってくるとおもうよ」
 裕介はうなずいた。男がこの前の自分の失言をおぼえていて、詫びているのがわかった。
〈これが、このひとの謝りかたなんだろう〉
 裕介も忘れようとおもった。
〈他人を傷つけておいて、それを忘れてしまうような人よりは、ずっとましだ〉
 裕介もかたい表情をほどいた。
〈それに、この人に言われて、考えさせられる部分もあった――〉
「さて、それじゃ行くか」
 男はアイスティーをのみほすと、立ちあがる。
「がんばってください」
 裕介が声をかけると、
「ありがとう」
 うれしそうにこたえた。
「ああ、そうだ」
 男は、となりのスツールのうえの週刊誌を手にとった。裕介は気づかなかったが、男が持ってきたものらしい。
「ちょっと前だけど、俺が書いた記事なんだ」
 なかほどのページを開くと、あゆみでて裕介にさしだす。
 裕介は立ちあがって、受けとった。やや紙がくたびれていた。記事の見だしが目に入る。
“乱交! 女子社員をむさぼるD生命の男たち”
「〔D生命〕というのは《大救生命》のことなんだ。週刊誌だから すこし大げさに書いてあるけど、ちゃんと取材した事実なんだ」
〈細木さんの《大救生命》が記事に?〉
「知りあいが《大救》だって言っていただろう? 大変だろうなとおもって。よかったら、その記事を読んでみないか?」
「ええ、ぜひ」
 裕介は以前、細木から《大救生命》のひどい実態を耳にしていたので、その記事に興味がわいた。
「ちょっと、ひどい内容の記事だけど、べつに悪気があって見せるわけじゃないから」
 男は心配そうに裕介の顔をみる。
「はい、わかっています」
 明るくおうじた。
 男は安心したようにうなずき、
「それじゃ」とズボンのポケットをさぐり、小銭をとりだした。
「つけておこうか?」
 マスターがいう。
「給料日にまとめて払うほうが、なにかと便利だろう? うちも、もうけさせてもらえるし」
 カウンターのなかから、友好的な笑みをおくる。
「うん、そうしてもらえるかな」
 男は小銭を手のひらにおさめ、頬をゆるませる。
「じゃァ、これ、お借りします」
 裕介は男が出ていくのを見おくった。
 さっそく、週刊誌に目をうつした。
“乱交! 女子社員をむさぼるD生命の男たち”
 表紙をみると、1年まえの8月30日号だ。
 マスターはなにごともなかったかのように、仕事をはじめた。カウンターからグラスをさげ、洗っている。 
 裕介は記事の世界に入っていった――

     *

「若い女ばかり集めて、上の男たちは毎日キャバクラかソープ・ランドにでもいるつもりなんじゃないの」
 D生命のA子さん(20歳)は言う。
 D生命保険株式会社の年間契約高は、日本で27社ある生保会社の中で5本の指に入る。
 ここ数年で急成長してきた要因の1つは、“Dレディ”と呼ばれるヤング・ギャル外交員の営業によるところ大である。大学・短大の新卒の女子を高額の初任給で採用し、厳しい徹底的な社内教育で全員を一流の保険外交員に仕立てあげる。今までの保険のおばさんイメージとは大違い、20代前半のピチピチ・ギャルの唇からこぼれる説得力ある言葉と微笑みに酔い、オジサン族の契約高はうなぎ昇り。企業の窓口も若い女の子には甘いのか? 会社ぐるみの大型契約も少なくない。
 前述のA子さんもDレディの1人だ。今春、某私立短大を卒業、D生命に入社した。
「2流短大卒だし、特別な技術や才能をもっているわけでもない。就職準備もまったくしていなかったんだから、就職がうまくいかなくて当たり前よね」
 内定がなかなか決まらず、飛びついたのがD生命の求人広告だった。
「だって、短卒でも初任給20万円。仕事は難しくありません。誰にでもできるように、懇切ていねいに教えます、だもんね」
 大量に採用しても、D生命の場合は新入社員に強制的に縁故者の契約を迫るので、会社は当初から損をしないようにできていた。
「『女に頭は要らない、そこそこの顔と体さえあれば、契約は取れるんだ』それが上司の口癖よ。並のルックスがあれば、誰でも入社できたみたい」
 結局は、女子の選考は“顔”で決めるのか? A子さんもサーフィンとテニスを趣味にする、健康的な現代美人だ。
 ところが、20万円の給料が保証されるのは、研修期間のたった1カ月間だけ。そのあいだに、本人はもちろん、家族・親戚から友人・知人にいたるまで、契約取りを強制される。
「ところが研修が終わって外まわりを始めると、お給料は一挙に半分の10万円にダウン。『後は歩合制だから、君たちの努力しだいだ』なんて調子のいいこと言うのよ。月に基本給の10万もらうだけでも、ものすごいノルマがあるのよ。歩合がつくほど契約をとるなんて、できっこないわ」
 A子さんは口を尖らせる。
 しかし、D生命の急成長を見ればわかるように、『できっこない』ほどの契約を取ってくるギャルたちがいるのだ。
「体を売っているのよ」
 と、A子さんは言う。
 ここで、D生命の急成長の核になる要因を紹介しておかなければならない。D生命は、100パーセント出資の「株式会社Dデータ・バンク」を10年前に設立している。ほとんどの生保会社がデータ・バンクを持っているが、D生命のは規模が違う。いま問題になっている、プライバシー・データの宝庫になっているのだ。大げさに言えば、全国民の個人データがインプットされている。現住所・出生地・生年月日・職業・勤務先・地位・資産・収入・家族構成・学歴・職歴・会社での役職や評価・学生時代の成績・犯罪歴などから、身長・体重・スリーサイズ・健康状態・趣味・収入・旅行回数・友人関係などまで多岐にわたる。本人が知らない本人のデータ(?)まで押さえてあるらしい。情報収集のソースもまた多岐にわたっているらしいが、ごく一部の人間しか知らないトップ・シークレットになっているという。
 このデータをフルに使って、客の攻略法を大型コンピューターが弾きだす。たとえば、「Bさんは、現在27歳。大学を卒業後、現在のコンピューター会社『コスモ・システム・サービス』のプログラマーとして勤め、5年目になる。大学時代から交際の続いているOLのC子さんとは、来春に結婚の予定。Bさんはストレスの溜まる仕事で過去に胃を悪くしたことがあり、健康には自信をなくしている。現在もときどき病院の内科の世話になる。
 観劇に目がないが、最近は忙しくてチケットを手に入れる暇もない。
 生命保険は会社から入っているが、死亡保険金・入院特約等は全て低額。まだまだ不充分。
 趣味の観劇・来春の結婚・仕事のストレスから来る健康への不安、の3つが攻略ポイント」
 これは記者が作成した例だが、一歩でも社外に持ち出した場合、厳重な罰則を負わせられる現物は、A子さんによると「これの10倍以上の量と質!」がある。実際にアプローチし、説得するまでのトーク・パターンまで、複数のモデルが示されるそうだ。
 ただ、このデータが公平に手わたされるわけではない。
 本社から送られてくるデータは各支部のトップが握り、トップの判断で、それぞれの外交員に配られる。
 だれが見ても、契約を取りやすい人と、取りにくい人のデータは一目瞭然だという。
「『きみ、今晩、食事に行かないか?』。上司のこのせりふを断ったら、もうジ・エンドね。役に立たないデータを投げつけられ、遠いへき地に行かされたり、絶対に取れっこないような人のところへ回されるの」
 まあ、上司と食事に付き合うぐらいは、どんな嫌な男でも、仕事の内と思って我慢、我慢なのだろう。
「食事だけじゃないのよ」
 A子さんは顔を歪める。
「食事が終わったら、しつこく『送っていくよ』って車の助手席に押し込むのよ。そして、当たり前のようにモーテルの駐車場に車を入れるの。『戻ってください』って叫んでも、ニヤニヤ笑っているだけ。『さあ、いくぞ』って、車を降りるのよ。あたし、ドアを開けて、反対に出口に向かって駆け出したの。そしたら……」
 A子さんは苦々しい表情をくずせない。
「後ろから怒鳴るのよ、『ただで食い逃げする気か、バカヤロー!』って。そして、車に乗って追いかけて来て、全力で逃げるあたしの前に立ちふさがったの。車から降りてきて、力ずくであたしを席に押し込もうとしたわ、恐ろしい力で。あたしも必死で車のボディーに腕を突っ張り、抵抗したの。そしたら、あの男、あたしのお尻を思いっきり蹴とばしたのよ。1カ月もアザが残るくらいにね」
 インタビューをしていて、記者は不心得にも、レイプ・シーンを連想してしまった。とてもではないが、会社の上司と女子社員の関係とは思えない。
「あたしが悲鳴を上げたものだから、他人に見つかるとまずいと思ったんでしょうね。あたしを道に引きずり倒し、ひどい言葉――口に出せない淫らしい言葉であたしを罵ったわ。そしてサッサと1人で車に乗りこみ帰っていったの。あたし、人気のない夜道を泣きながら歩いて帰ったの。ほんとうに、悔しくて、悔しくて……」
 屈辱を思いだし、涙ぐんでいる。
「もうあの男は、あたしにまともなデータは回さないわ」
 A子さんはその翌日から2週間、欠勤を続けている。いろいろと考え悩んだすえ、今月いっぱいで退職すると言う。
 データは、女子社員の釣り餌になるだけではない。街で目をつけた女性の素性を知り、手の中に“落とす”ためにも、データは利用されているという。
 もちろん、D生命の全ての男性社員がそうというわけではない。限られたトップのみが、その醜い特権(?)を乱用しているのだ。
 激しい出世競争を勝ち抜いてトップに立つには、エコノミック・アニマルにならなければならない。エコノミック・アニマルは、セックスもアニマルにしてしまうようだ。
     *
 裕介は不快感につきあげられ、ページを閉じた。
 細木の職場がたいへんなところだというよりも、そんな世界にいる細木と美樹がつながっているのが耐えられない。彼女がどんどん醜い世界に入りこんでしまうような気がする。
〈美樹を救いだすんだ〉
「どうしたんだい、怖い顔して?」
 マスターの声が裕介のなかで意味をもつまでに、時間がかかった。2、3秒おくれて返事をする。
「え? いや、なんでもないよ」
〈美樹が好きだ――〉
 裕介はカウンターに肘をつく。合わせた両手に力をこめると、くみあわさった指は血のけが退き、白くなっていった。



   欠けた季節 19