欠けた季節 20  

     


     20

〈美樹への想いは、もうおさえられない――〉
 裕介は電話帳でさがしたりNTTに問いあわせてみたりしたが、彼女の電話番号はわからなかった。
 細木には訊けない。美樹をうばいとる第一歩になるのだから……。
 彼にたいして、すまない気がする。
〈でも細木さんには、美樹である必要はない。お金さえだせば、いくらでも代わりはいる。だけど僕は、美樹でなければならないんだ〉
 自ぶんに言いきかせる。いままでの自ぶんとは違い、思いきれるのがふしぎだった。
 時刻は夜の9時43分。2部課程もある《国際ソフィア大学》では、事務は午後10時までうごいている。学生課に電話をかけ、「自ぶんは教育学部の4年生」といつわった。「グループ合同研究の件で、どうしても至急に連絡をとりたいことがありまして」
 美樹の電話番号をおしえてくれるよう、たのんだ。学生が相手だからだろうか、ソフィア大学学生課の職員はふだんからすこしいいかげんなところがある。裕介の身もとの確認もしないで、依頼にめんどうくさそうな返事をし、のろのろと時間をかけて電話番号をしらべた。
 彼女の電話番号が手に入った。
 すぐに電話をかける。
《ソフィア大》総合図書館は9時閉館だが、自習室は閉館の30分まえ、8時30分に閉まる。閉室からもう1時間半ちかくたっていた。
〈もう帰っているはずだ〉
 コール音がつづく。
 出ない。
 細木の影に悩まされる。また2人で……。
〈居るはずだ〉
 祈るような気もちで、耳に神経を集中させていた。
 カチャリ。
 むこうの受話器があがった。
 裕介が名のると、彼女は驚きというより、なぜか安心したような声をもらした。
「明日の夜に会ってほしいんだ。あのレストラン・バーで、時間はこの前と同じ6時に」
 強引すぎるかとおもうが、すこしも退く気はなかった。美樹を愛しているという確信が、ふだんとは違う大胆な行動をおこさせる。
 美樹はとまどい、言葉をつまらせている。
「じゃあ、明日6時に」
 彼女が返事もしないうちに、裕介は受話器を置いていた。
     *
 ライト・グレーのスーツは麻混で、薄いストライプがはいっていた。スリム・タイプは、仕立てたように裕介の体にフィットしている。
『いつもジーンズばかりじゃダメよ。1着ぐらいスーツをもってないと恥かくわよ』
 先週、裕美にむりやりブティックのバーゲンにつれていかれ、1万円で買ってきた。着る機会がないとおもっていたサマー・スーツだが、裕美のアドバイスをきいて買っておいてよかった。
 もっとも、裕美もちゃっかり裕介を利用していた。立ちならぶブティックは女性服の店が多かった。自分の服を大量に買いこみ、山ほど裕介にかかえさせた。『デイトの相手はいっぱいいるけど、バーゲンをあさっている姿は、見せられないからね』
 裕介はスーツのライトグレーにあわせて、淡いパープルのネクタイをしめていた。これもスーツとおなじく、裕美がバーゲンのときに選んだ。歩きながら手をタイにそえ、まっすぐか確かめた。
 6時前の街。西陽に斜めに切られるビルディングは、長い影を路上にのばしていた。あと30〜40分もすれば、夕暮れが顔をだす。ついこの前までは7時をすぎても充分に明るかったのに、しらぬ間に昼がみじかくなっている。夏の終わりが、すぐそこまで来ていた。
 目標のビルディングは、もう色とりどりのイルミネイションに飾られていた。
 エレベーターで3階まであがる。ボックスのなかは裕介ひとり。階が上がっていくにつれ、決意に胸が高なっていく。
〈美樹と2人で、新しいスタートをきるんだ〉
 エレベーターが3階でとまり、ドアがひらいた。
「いらっしゃいませ」
 ボーイが頭をさげる。「どうぞ」と、手のひらで店の入口をさししめす。
 店に入った。
 琥珀色のライトが裕介をつつむ。場所をたしかめるように、見まわす。右がわには、模型のハイ・ウエイのような長いカウンターが、いくつかのシャンデリアに照らされながら奥へとつづいている。カウンターの壁の時計をみると、5時48分だった。左がわのテーブルの列に目をうつして、
〈アッ!〉
 息をのんだ。
 裕介にむかって、テーブルについている美樹が手のひらをみせていた。
〈先にきていた。しかも――〉
 あわてて早足にあゆみよる。
「ごめん、気がつかなかった」
 美樹は微笑んで、くびを揺らした。
〈気づかないはずだ〉
 思わくは、完全に外れていた。彼女はジーンズに白のTシャツ。髪もこの前のような大きなウエーブはなく、ナチュラルに流している。
 美樹は立ちあがり、
「ごめんなさい、こんなかっこうで。裕介くん、きっとジーンズだろうと思って」
 隠すように、Tシャツのそでに手をやる。ブラウンの髪さきが、白いTシャツの胸もとでゆれる。
「似合ってるよ」
〈だけど、いつも2人はミス・マッチだ――〉
 裕介は気をとりなおそうとつとめる。
 席についた。
「いつものジーンズもいいけど、スーツすがたもとてもお似合いよ」
 美樹にほめられ、こころがなごむ。
「きょうは、特別な日だから」
「特別?」
 裕介はうなずき、彼女を見つめる。が、それ以上のことばを口にするのはためらわれて、話はつづかなかった。美樹も口をつぐみ、“特別”の意味をくりかえして問おうとはしなかった。
 料理をオーダーした。
「急に誘ったりして、わるかったね」
「いいのよ。いままで何度も裕介くんに無理をきいてもらっているんだから」
「電話にでたとき、ほっとしたような声をだしてたね?」
「いろいろと、あるの……」
 美樹はあいまいにかわした。
 美樹との間に、溝がよこたわっていた。彼女の白いTシャツが、スーツすがたの裕介を拒んでいるようにさえ見える。せめて、かたくるしい服を脱ぎすて、自ぶんもジーンズに着がえたかった。
 裕介の緊張を美樹も感じとり、おたがいにぎこちなくなっている。
 料理がはこばれてきた。できるだけふんいきをうちとけようと、裕介はたあいない話をもちだす。美樹も笑顔でかえそうとする。
「あ、そうだわ」
 しばらくして、美樹がバッグからハガキをとりだした。
「1週間ほどまえに届いたのだけれど」
 裕介に手わたす。
 宛名の下に〔AIR MAIL〕と赤でスタンプされていた。
 アメリカへ留学した織田万紀子からの便りだった。
[ここに来てから1週間がすぎました。フェミニズムでは先進国のアメリカも、女性の自由はFreedomではなく、Liberty。どこにいても、現実の厳しさは変わらない。歩きださないと、なにも始まらない]
 織田万紀子らしいしっかりした筆跡だった。
 追伸として[裕介くんにもよろしく]とあった。
「『Freedomではなく、Liberty』って、どういう意味なの?」
 裕介の問いに、美樹は自ぶんに言いきかせるように言う。
「つまり、与えられた自由なのよ、形のうえで。たいせつなのは、こころの自由なの」
 美樹は声に力をこめる。
「わたしも歩きださないと」
 裕介はなにも言えなかった。いまでは、美樹の留学に賛成できない。
 食事を終え、コーヒーを飲む。
 会話は、また途切れ途切れになった。
 ときおり、コーヒーカップがちいさな音をたてる。
 なじめない空気のまま、8時になっていた。顔を合わせてから、もう2時間がすぎていた。
 話を切りだそうと何度もおもったが、言いだすキッカケがつかめない。
 美樹が顔を上げた。
「何か、お話があるんでしょう?」
 ライト・ブラウンのクリスタルが2つ、不安そうに揺れている。
 裕介は意を決した。
「まえまえから訊こうとおもっていたんだけど――」
 美樹の目をとらえる。
「なぜ、……細木さんだったの?」
「……どういう、意味かしら?」
 声が憂いをおびている。
「きみとは合わない」
「裕介くんには関係ないわ」
 美樹は感情を抑えようとして、かたい声になった。
「関係あるよ」
「どうして? わたしの生きかたをあなたに指図される理由はないわ」
 きつい口調で撥ねつける。
 裕介の胸に哀しみが突き刺さる。
 沈黙が張りつめた。
 裕介は声を落として、たずねる。
「おしえてくれないか。なぜ他のひとではなく、細木さんだったのか」
 しずかにクラシックが流れている。
 美樹はまわりのテーブルをさりげなく見まわし、静かにかたりだす。
「最初に、男性のプロフィール・ファイルを見せられるの」
 裕介はうなずく。細木から聞いていた。《ドール・バンク》に登録した男性会員は、まず書面で自己紹介をする。女性は、《ドール・バンク》の事務局がピック・アップした何件かの書類のなかから、自分の条件にあった人、好みにかなう人をお見合いの相手にえらぶのだ。
「ほとんどの人が、どんなにメッセージを飾っていても、結局はお金しかなかったの」
 彼女は瞳をちいさく左右に走らす。テーブルどうしは充分な間隔をあけて離れていて、だれも隣に注意などはらっていないだろうが、用心して声を低くする。
「女性を所有できる。まさしくモノとして若い女性を買えるんだという優越感が、見えてしまうの。買いもの気分で女性をもとめているのはわかるわ」
〈美樹も抵抗をおぼえていたんだ。まったく気にしないで、そういう世界に座りこんでいたんじゃない〉
 よろこびがわいてくる。
〈僕たちは、同じ種類の人間なんだ〉
「だけど、細木さんは違ったわ」
 彼女の表情がやわらぐ。裕介は細木へのジェラシーが燃える。
「当方には、何年間も契約を持続できるほどの経済力はなし。されど当方と交際してくれる心やさしき女性には、短期間でも我が身なげうち、誠心誠意をささげたし。演ずることなく、ふだんの性向そのままで結構。雇用・被雇用の関係にあらず、おたがいの意思に基づいた人格対等の交際を欲する」
 美樹は暗唱した。
「実際に細木さんに会って、確信したわ。メッセージが真実のさけびだって」
〈細木さんの人間性からみて、嘘じゃないだろう。真剣に女性とフィフティ・フィフティの交際をして、“欠けた季節”を埋めようとしていたんだ〉
『せめて1度は、光のなかで生きてみたい……』
 細木のなげきをおもいだす。
『私にはいちども、その……いわゆる、青春という時期がなかった。いわば、輝く季節を飛びこしてきてしまったんだ――』
〈細木さんを否定できない〉
 欠けた季節をうめなければいけない。一番やりたいことをしなければ、この世に生まれ、生きているのが意味なくおもえる。このままで一生を終えたくない。そこまで思いつめた行動を、とがめる権利はない。
〈人の心なんて、理屈じゃないんだ――〉
 裕介は美樹への想いをみつめる。どうして彼女に魅かれるのかなんて、説明できない。
〈僕は、美樹が好きなんだ〉
 とらえられる事実はそれだけだ。
「そろそろ帰りましょう」
 彼女はレシートに手をのばし、立ちあがろうとした。
 また、前回のようにふたりの手がレシートにかさなった。
「僕が誘ったんだから」
 裕介が言うと、今夜の美樹はすなおに手をはなした。
 彼女は裕介から距離をおこうとする。ふたりはレジまでよそよそしく、離れてあるいた。
 店を出た。
 肌にまとわりつくような、どんよりした夜気を肌に感じる。
 空は暗いが、地上はねむっていない。きらびやかなイルミネーションが夜をにぎわしている。ナイト・ライフをたのしむ若者の華々しい衣装にまじって、勤めがえりのビジネス・スーツが徒党をくんでいる。OLたちの嬌声をかきけすように、酔っぱらいが演歌をどなっていた。
 消えいく夏を追いかけるように、ティーン・エイジがさまよっている。ひとりの少年が両ポケットに手をつっこんで歩いていた。うわ目づかいにあたりを見る目がつりあがっている。命よりもだいじな宝を奪った泥棒をさがすかのように。2人の少女が道ばたにしゃがみこんでいた。どこかでかけがえのないものを落としてしまい、さがしたが見つからなくて途方にくれている、というふうに。
「きょうはありがとう」
 店をでて数メートルも歩かないうちに、美樹はたちさろうとする。
「待って!」
 追うように呼びとめた。
 彼女と1メートルほどの距離で向かいあっていた。人どおりはめいわくそうに、だが器用にふたりを避けていく。
「やめなよ」
 裕介は哀願するように言った。
「もう、細木さんと会うのは、やめなよ」
 美樹はほそい首をよこに振る。
「細木さんはわたしを必要としている。そしてわたしにも、細木さんが必要なのよ」
「そんなにお金が要るのかい?」
 苛だちをおぼえる。
「留学なんて、やめればいいんだ。そんなことまでして行って、いったい何になる? そんなことのために、きみは――」
「他人の価値観をみとめない人って、嫌いよ!」
 彼女は本気で怒っていた。
〈違う、ちがうんだ〉
 うまく気もちをつたえられなくて、哀しくなる。
「きみが、好きなんだ」
 すすみでて、両手をのばす。美樹はかわそうとしたが、ひと足はやく裕介の両腕が彼女の自由をうばっていた。細いからだを抱きよせ、くちびるをとらえる。
 かたく、ちいさなつぼみのようだった。
〈いま、美樹と――〉
 このうえないよろこびが胸を打つ。
 両腕のなかにあまる、美樹のからだを抱きしめる。
 裕介のまわした手のひらが、彼女の背にそえられ、薄いTシャツをとおして美樹がつたわってくる。
 遠くから、ひやかす声がきこえた。
 ふたりが1つになり、意識は半透明なヴェールにつつまれていく。時が止まっている。永遠につづくような甘美な酔いに浸り、裕介の目は閉じられていた。
 まつげのすきまから、外界のかすかな光がはいりこんでくる。
〈―――!〉
 大きく、目を見ひらいた!
 美樹とくちびるを合わせたまま、まじかにライトブラウンのクリスタルをみてうろたえる。彼女の目はしっかりと開かれ、感情のない瞳を裕介にかえしていた。
 たちどころに熱がさめていく。足もとから、寒けにもにた感覚がたちのぼってくる。
 両腕のちからをぬき、美樹をときはなつ。
 彼女はゆっくりと後ろに2、3歩さがった。
「……ごめんなさい。いまのわたしには、……時間がないの」
 裕介の世界が足もとから揺らいでいた。美樹をまえにして、なにも言えず、ただ立ちつくしていた――。



   欠けた季節 20