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           裕介は美樹とわかれた後、どうやってマンションに帰ってきたのか、おぼえていない。 
           気がつくとベッドであお向けになり、天井をながめていた。天井は高くて遠くに見えた。ゆっくりと回っているようにもみえるが、回転しているのは天井なのか自ぶんなのかわからない。自ぶんの確かな存在感がなく、空中に体が浮かびあがり、ただよっているような感じだ。 
           ふだんは明るさのたりない電灯も、今夜はまぶしい。しかし、灯りを消すのはためらわれる。落ちこんだこころが、さらに深い暗闇に沈んでしまう気がする。 
           美樹の、くちづけをうけていながら感情のなかった瞳が、裕介の胸にフラッシュ・バックする。 
          〈こんなはずじゃ、なかった……〉 
           天井をみつめたまま夜をすごし、朝をむかえた。 
           失恋すると食事が喉をとおらなくなる、とはよく耳にした。それは実際にではなく、感情をおおげさに表現したにすぎないとおもっていた。しかし今、ほんとうに、食欲などかけらもない―― 
          〈なさけないなぁ、たかがフラレタぐらいで……〉 
           自ぶんをわらおうとするが、哀しみをごまかす気力もない。 
           なにも、する気がおこらない……。 
           ときどき寝がえりをうち、ベッドにひたいをおしあてる。 
           太陽が真上にのぼるころには、沈んだ気分は体になじんでしまい、意識することもなくなった。 
           陽光は窓のカーテンにさえぎられている。 
           生きている実感がなかった。自ぶんの意思を無くしていた。 
           午後になっても、眠けはやってこない。 
           なにもしなかった。 
           なにも考えたくなかった。 
           食べず眠らずで横になったまま、まる1日がすぎていった。 
           ふたたび夜を越えていった。 
           カーテンごしに2度目の朝陽がさす。 
           いつのまにか、あさい眠りにうつろいでいたらしい。 
           背なかが締めつけられるように、痛かった。 
           考えてみると、ベッドのうえに、30時間以上も寝つづけていた。 
           時の経過が、ショックからすこし裕介を立ちなおらせていた。 
           まだ気分は萎えているが、すこしは自ぶんを冷静に見ることができる。 
           目ざまし時計は8時をすぎていた。 
           ゆっくりと立ちあがる。すこし立ちくらみがした。 
           おとといの夜に帰ってきたときの、スーツのままだった。 
           汗で肌がびっしょりと濡れていた。 
           のんびりと時間をかけて、シャワーを浴びる。熱いシャワーが、こころに刺さったトゲを溶かしてくれるようで、ここちよかった。 
           ジーンズをはいた。ウエストがゆるくなっていた。 
          〈なにか、食べなきゃな〉 
           9時になると《ガーデン・ハウス》へ行った。開店は10時からだが、マスターはいつも1時間くらい前から扉の鍵をあけている。 
           まる2日ぶりの裕介をみて、マスターは目をまるくする。 
          「何かあったのかい?」 
           裕介は頬がこけ、目が落ちこんでいた。 
          「……ちょっと、ね」 
           ことばをにごす。まだ、だれにも話したくなかった。たとえマスターでも。他人にかたれるほどまで、気もちの整理がついていない。 
           言いにくそうにしているので、マスターはそれ以上訊いてこなかった。そのこころづかいが、いまの裕介にはこの上もなくありがたかった。 
           きのう1日はなにも口にしていない。空腹なはずなのに、食欲がわいてこない。モーニング・サービスのトーストも、ひとくちかじっただけで、あじけない砂をかんでいるような感じがして、皿にのこしてしまった。 
           マスターは雑炊をつくってくれた。湯気のたつ皿が、カウンターにだされる。裕介は礼をいって、ひと口スプーンですくった。口にいれると、かすかな辛みが舌にしみこみ、唾液がにじみでてくる。のどをとおって胃におちると、ぬくもりが全身にひろがっていく。生きかえるようだった――。 
           裕介は、スプーンでつぎつぎと口へはこんだ。
  
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