欠けた季節 22  

     


     22

 8月30日。美樹との別れから、日づけが3つ増した。ときおり彼女の顔がちらつくが、もう、激しい想いはわいてこない。今でも、好きな気持ちに変わりはないが、むかし見た、なつかしい映画を思いかえすようなものだった。
〈終わったんだ、ことしの夏も……〉
 この1週間ほどで湿度もやわらいで、夜はかなりすごしやすくなっていた。
 電話がなった。
 受話器をとる。耳にとびこむ相手の声に、胸を突かれた。
 気まずさに、裕介はことばがすすまない。
「いまから、会わないかね?」
 細木がいった。
 時計は、午後8時7分。
「また今度にしませんか。これから出かけるには、もう時間が――」
 美樹の顔がちらつく。細木と会うのは、できるだけ先へ延ばしたかった。
「きみのアパートの近くにきているんだ」
 細木は退きさがらない。いつもより、口調が強い。
〈たぶん、美樹の話だろう……〉
「パチンコ店のまえで、どうだろう?」
 しつこく誘ってくる。
〈もめそうだ〉
 不安が走るが、逃げるわけにはいかない。タネは自ぶんがまいたのだから。
「わかりました」
 覚悟をきめて、受話器をおいた。
 細木の声はかたく、決意を秘めているようだった。
〈口論は避けられそうにない〉
 裕介は頭をかかえた。

     *

 裕介はパチンコ店《ニュー・アポロ》へ向かって夜道をあるいていく。
《ニュー・アポロ》――そこはオーナーと《金石組》の闘いがあった場所なのは、細木も知っているはずだ。
〈どうして、この場所をえらんだのだろう?〉
 《ニュー・アポロ》は休店日で、あたりは暗かった。
〈細木さん、店が休みだと知っていて、場所を指定したんだな〉
 以前に蹴りだされた場所で会おうなんて、おかしいと思っていた。
《ニュー・アポロ》が休みなら、夜間は話しあいに絶好の場所だ。付近の人どおりはまったくといっていいほどなく、大声で話さないかぎり、他人に聞かれる心配はない。
 店のシャッターは下りている。シャッターを背にして、暗がりで人影がたたずむ。裕介がちかずいていくと、さきに影が手をあげた。裕介はかるく頭をさげる。
〈きっと、すごい怒りをためているだろう〉
 美樹の顔に、細木の怒り狂った顔がクロスする。
「無理をいって、すまなかったね」
 予想に反して、細木は笑みをたたえてむかえた。だが、笑顔にこわばりがみえる。薄闇なので、こまかな表情はとらえにくい。
「いまとなっては、なつかしい。この場所が、裕介くんとの出会いをつくったんだなぁ」
 2カ月ほどまえのできごとを細木はなつかしみ、あたりを見まわした。
「《ニュー・アポロ》のあの男も、自分の生活をまもるために私を蹴りだしたんだ。私があの男の立場になったとしても、そうするだろう。当然の行為だ」
 裕介の目にも、街灯の薄あかりがなじんできた。細木の背広はいつものダークグレーではなく薄いブルーで、しかも新品のようにみえた。
〈美樹とのことをどう切りだしてくるんだろうか?〉
 思っていたより穏やかな細木の言動に、裕介はとまどう。
「どこかの喫茶店に入るより、夜風にふかれながら裕介くんと立ち話がしたかったんだ。かまわないだろう?」
 うなずいた。
 風が肌をなで、気温の高さを忘れさせてくれる。細木は立ち話といったものの、両手をズボンのポケットにつっこみ、黙ってぶらぶらして、あたりをながめているだけだった。
 夜の深い静けさに、裕介は不安になる。
 いたたまれなくなって、口をひらいた。
「美樹さんから、聞いたんでしょう?」
 細木のぶらついていた脚がとまり、裕介の顔をみる。
「何が?」
 2人は顔を見あわせていた。
「この前の、僕と彼女とのことです」
 細木は目を見はり、顔をひきつらせる。
「美樹と、きみと、――何かあったのか?」
 真剣な顔で、喰い入るように見つめてくる。
 裕介はへんだと感じた。
「美樹、さんと」
 あわてて“さん”をつけたす。
「会ったんでしょう?」
「きのう、会ったばかりだが」
「彼女は話さなかったんですか?」
「だから、何を?」
 細木はなかば怒っていた。暗い陰をおとした顔に、目だけが光っている。
〈美樹はなにも言ってなかった――〉
 かってに思いこんでいた自ぶんが、おろかしい。
 細木は裕介をにらみ、次のことばを待っている。
 裕介は覚悟をきめた。
「僕は、美樹さんに愛をうちあけました」
 細木の目が、驚きでさらに開かれる。
「だけど、もののみごとにふられました」
〈これは、過ぎさった事実なんだ〉
 自ぶんに言いきかせ、たんたんと話すようにつとめた。
 細木の表情が、うれしそうな安堵にかわっていく。それ以上くわしくは訊こうとしない。視線を裕介からはずすと、「そうか。そうか」とつぶやきながら、何度もうなずく。
「自ぶん以外にも、信じられるものがあるもんだなぁ」
 幸福をかみしめるように言う。
 裕介のほうを向き、
「気にしなくていいよ。残念だったね」
 優しくいった。
〈ののしられる場面を想像して、覚悟していたのに……〉
 裕介はひょうしぬけした。
「大学の夏休みも、もう終わりかな?」
「来月の10日から始まるんです」
 きょうを入れて、休みはあと11日間だ。
「せっかくの大学生活だ。納得のいく日々をおくりたいね」
 細木は目じりにしわをよせる。
「僕はまだ、迷ってばかりで……」
 薄暗いアスファルトに視線をおとすと、濃い人影が前方へのびていた。足もとから伸びている自ぶんの影だと気づいた。
 向かいあう細木の影は、彼の後方へ隠れているので、裕介からはよく見えない。
「私はこの歳になって、やっとわかったんだ。幸せになりたかったら、逃げてはいけない」
 細木の口調はやわらかく、自分自身をかえりみて、確認しているようでもあった。
「私はおくびょうだったから、他人とも自分とも波風たてずにかわそうとばかりつとめてきた。しかし、必要なときは闘わなければ。自ぶんの可能性を試してみないと、自ぶんを生きたという手ごたえは返ってこない」
 夜の街に、犬の鳴き声が乾いたひびきをうった。
「ときには、気分のいい日もあった。しかしそれは、たとえば酒に酔っているときのような、いっときの逃避にすぎなかった。ほんとうの幸せは、ほんとうの自ぶんから逃げずに、向き合うことから始まる。必要ならば、自ぶんと闘わなければならない。そして、他人とも――」
 いまの裕介には理解できる。
 破れたとはいえ自ぶんがした美樹への告白――。
 自分のほんとうの気もち、そこからが、スタートなのだ。
 自ぶんとの、他人との闘い――その結果が何をもたらすかは、わからないけれども……。
「“自分の季節”を生きるには、闘う覚悟がいる。自ぶんとも、他人とも。これが、私が、私の人生からまなんだ結論なんだ」
 裕介がうなずくと、細木は表情をやわらげる。
「つまらない話をして、もうしわけない。どうしても今夜、裕介くんに聞いておいてほしかったんだ」
 裕介はほっと胸をなでおろした。
「てっきり美樹さんとのことで、細木さんに怒られるんだと思ってたんですよ」
「正々堂々のアタックなら、文句はつけられないよ」
「命拾いができてよかった」
「命拾い、か……」
 細木はひとりごとのようにつぶやいた。
「よかったら、これから僕のアパートに来ませんか。せまい部屋ですけど」
「ありがとう」
 細木は満面に笑みをたたえる。今夜は、よく笑顔をみせる。
「せっかくだけど、また今度の機会にするよ」
『今度』といいながら、細木は目をそらして横を向いた。まなざしは、遠くの夜をみつめている。
 裕介はもう1度さそったが、「今からだと、中途半端な時間になるから」と、ていねいに断られた。
「ちょうど1カ月まえ、あの場所で、死を覚悟した対決があったんだな――」
 細木は《ニュー・アポロ》のよこの小道に目をやっていた。
 裕介を振りかえり、
「こんなところに、わざわざ呼びだしてすまなかったね」
 右手をさしだし、握手をもとめてくる。
〈今夜の細木さんは、どこか変だ……〉
 裕介はためらった後、差しだされた細木の右手に、自ぶんの右手をそえた。細木の手はちいさいが、骨張っていた。細木が手に力をこめる。
「自分に負けるなよ。人生は1度きりなんだ。思うように生きるんだ!」
〈どこに、こんな力があるんだ――〉
 痛いほど手をにぎりしめてきて、力強い視線も裕介の目をとらえてはなさない。さからいがたい熱い愛情の気迫のようなものを感じて、裕介はうごけなかった。
 細木の目は力がみなぎっている。だが、どこか哀しげだ……。
 一瞬だったが、こころの底で通じあえたような、深い沈黙があった。
 細木が手をゆるめ、ゆっくりと自分の右手をひいた。にぎりあう手が、ほどけた。
「……細木さん」
 裕介は消えいるような声で、やっと口をうごかせた。
「何か、あったんですか……?」
 細木はくびを横にふる。
「なんにも、ありゃしないさ」
 そして、のぞきこむように腕時計をみて、
「もう、帰りなさい」
 ぼそりと言った。
 裕介の足はうごかない。
「私のことは、もういいから」
 細木の顔は、わらっているようで、泣いているようで、あどけない子どものようで、衰えた老人のようで、とらえきれない不思議な表情をしていた。
 ――母親をさがす迷子の不安そうな顔。
 ――高校野球で、劇的な逆転負けをきっして泣きじゃくる球児。
 ――たくさんの苦労をのりこえてきたおばあちゃんの幸福そうなほほ笑み。
 どの顔にも似て、どの表情ともちがった。そして、なぜか哀しみがただよう、美しさだった。
「さあ、早く」
 細木に静かにせかされ、裕介は別れのあいさつをして、ゆっくりと体の向きを変える。
〈このまま別れても、いいのだろうか?〉
 迷う。
〈もしかすると、もう2度と会えないのでは……〉
 細木に背を向けていた。
「おやすみ」
 細木の声を背なかで聞いた。
〈行っては、いけないのでは……〉
 悪い予感におそわれる。だが、たしかな根拠はなかった。
 人間を超える、なにか不可思議で説明のできない巨大な力に、さからえず押しだされるように、裕介は闇のなかから明るい場所へむかって、歩きだしていた――。



   欠けた季節 22